バックナンバー今月のエッセイ
最終更新日: 2011年8月15日
H23年度版H22年度版H21年度版 H20年度版H19年度版

閲覧ガイド
下線付きのNo.をクリックすると該当のページにジャンプします。 目次のタイトルを枠内に表示するために短縮することがありますのでご了承ください。 筆者名は敬称を略しています。

◆ 目 次

No.
筆者
タイトル
92 松村 洋 2011年 新年のご挨拶
94 貝塚 正彦 「バリ島」と私
96 常信 伊佐夫 ホームページに思う
98 倉地 正 第2の復興
100 児玉 亨 メンバーズ・エッセー‥‥
102 猪熊 建夫 メディアの功罪
104 木村 峰男 東日本震災地ボランティア‥‥
106 佐藤 和恵 バラの香り
No.
筆者
タイトル
93 石川 通敬 都市と近郊住宅地の樹木‥‥
95 橋本せつ子 新春2600キロのドライブ
97 杉野 恭 事業としての里山再生
99 小宮山直子 東京の鬼門
101 鶴岡 忠成 チャリティー・コンサート
103 田中 健一 復興ボランティアの記
105 中重 賢治 信越トレイル踏破雑感

2011/08/01(No106)

「バラの香り」

佐藤 和恵

筆者皆さんはバラの花、お好きでしょうか?

バラの花はとても種類(120種)が多く、食べて良し、香り良し(贈られて良し!)。

精油(エッセンシャルオイル)は植物に含まれ、揮発性の芳香性物質を含む有機化合物です。オイルという字はついていますが、油脂とは全く別の物質で、水に溶けにくく、アルコールや油脂に溶け、300種類位の精油があります。

精油の中でローズは「香りの女王」と呼ばれ、高級感に溢れたエレガントな香りがします。また極めて複雑な構成成分を持っていて、分かっているだけでも300以上の成分が含まれており、精油全体の86%程度を占めています。残り14%は多数の微量成分からなっているので、ローズの優れた特性に重要な役割を果たしていると考えられています。抽出法の違いでローズ・アブソリュートとローズ・オットーがあります。ローズ・アブソリュートはキャベッジローズ(Rosa Centifolia)から溶剤抽出法で得られ、透き通るような赤色をしています。熱バラの花が加えられてないので、水蒸気蒸留法で抽出されるオットーより、甘みが強くバラの花そのもののような香りがします。この匂いの元はフェニルエチルアルコール(バラの香気成分)で70%前後も含まれているので、バラが濃縮された香りがします。最近、この成分が毛乳頭を活性化することが、慶応大学とノエビア化粧品の共同開発で明らかにされ、育毛剤の主成分として配合された商品が発売されました。ローズ・オットーは水蒸気蒸留法でダマスクローズ(Rosa damascena)より抽出され、ほぼ無色透明です。アブソリュートよりも大量の花びらを使うので、非常に高価、溶剤を使わないので、刺激は低く、すっきりとエレガントな香りです。成分はアブソリュートと違い、シトロネロールを50%位含んでいます。これは抗感染・免疫調整・強壮・鎮静・血圧降下などの作用があります。またアブソリュートよりも3倍ほどゲラニオールを含むので、幸福感をもたらすドーパミンの分泌をよりアップさせるとも言われています。分子が小さいので経皮吸収されるようです。トリートメントする場合はこちらがより好まれます。

精油はまだ日本では雑貨扱いですが、少しずつ精油の抗酸化作用を調べたりして、化学的な検証も行っていきたいと思っています。現在、認知症予防あるいは認知症軽減ができるかどうか?をアロマセラピーを使用しての実験で進めているところです。また薬学部の学生でアロマをやりたいという学生がやって来るようになりました。私の老後には間に合いそうにありませんが、好きなお酒を飲んでアンチエイジングしながら、アロマ三昧の老後を夢見ています。

さとうかずえ ディレクトフォース会員
現昭和大学医学部客員教授、明海大学歯学部常勤講師、東京工科大学バイオニクス学部兼任講師

↑ ページトップ

2011/07/16(No105)

「信越トレイル踏破雑感」

中重 賢治

筆者3年掛りで上越と信州に横たわる里山を巡る全長80kmのロングトレイルに山仲間と挑戦。

一昨年の9月初旬戸狩野沢温泉バス停で降り立つと、雨の降る中、揉み手で旅館の主人が出迎え、バスで観光案内をしてくれた。そこは猫の額程の小さな棚田が幾重にもせり上がり、どん詰まりにひっそりと阿弥陀堂が佇む。簡素な禅寺、樹齢千年超の神戸の大銀杏、小菅神社と映画のロケ地を巡って旅館に到着。夕食前に主人の勧めで「阿弥陀堂だより」の映画鑑賞。奥信州の美しい季節の移ろいの中、心温まるドラマが展開する。しかしその背景には病理と生死、此岸と彼岸を廃れ行く寒村に鋭く投影していると個人的に感じた。

スキーリフトが切れた辺りから急勾配となり夏日の残る炎天下一気に汗が噴出、間もなく斑尾山頂上に立ち踵を返して万坂峠を経て袴岳を辿る。上越側に眺望が開け足下には野尻湖が群青色に輝き、背後に戸隠山、右手には黒姫山、最北に妙高山の大山容が鎮座。

夕方トントントトン小気味の良い太鼓の音が響いてきた。主人に聞くとすぐ上の神社で村の秋祭りが今日から始まったと。囃子に合わせて里神楽の真最中、老若男女が集い収穫を祝っていた。祭りに帰郷して来た娘さんとツーショット写真に納まる、心配顔の娘の親父が近づいて来て誘われるままに酒盛りの車座に加わった。鎮守の森の宴は深夜まで続く、喧噪しか知らぬ都会人にとっては想定外のデジャビュであった。

斑尾山への急登 鎮守社の里神楽 幻想のブナ林

昨年6月初旬富倉峠を越えて上杉謙信が陣を張った大将軍跡を通過すると、信州側に青々と水田が千曲川沿いに広がり、その上を白いハングライダー数機が滑空していた。広葉樹林の彼方此方に山つつじが淡いピンク色に咲き乱れ、最高峰の鍋倉山からの尾根筋には両側にブナの大木が林立し、その一本の大木は一反の水田を潤すと云われる。

旅館の好意でイチゴ狩りに招待された。既に収穫を終えた畑であるが、大きく熟したイチゴが取り放題、食べ放題、我先に散らばり貪り始めた。イチゴは孫二人の大好物で、何時も一粒も貰えないお爺さんだが、日頃の鬱憤を晴らすべく10粒、20粒と頬張り30粒を超えた辺りから流石に胸がむかついた。我が卑しさを大反省。

今年6月末に全行程を踏破したのは僅か3人のみ、土砂降りの雨に大勢の脱落者が出た。牧野小池の周辺の枝葉に張り付く数百の白い泡状のモリアオガエルと水面に漂う薄緑のクロサンショウウオの卵塊、山深い森での神秘的な生命の誕生に身震いを覚えた。ひたひたと雨が地面を叩く、柔らかい白い銀嶺やピンクの岩鏡がさらに彩度を増す。圧巻は天水山からブナ林を下ると濃霧が右から左へゆっくりと流れ、大きな幹に沿って天に登る、全員が足を止めその幻想の中に吸い込まれた。未曾有の二大事変の間、個人的には昨年末古希を迎えて半世紀の会社人生にピリオド。このトレイルを通じて人は大自然の懐に抱かれて生かされていると悟り、原点回帰し自然体で生きる大切さを心底教えられた。

2011.7.6 記

なかしげけんじ ディレクトフォース会員 元丸紅

↑ ページトップ

2011/07/01(No104)

「東日本震災地ボランティアに参加して」

木村 峰男

木村 峰男氏5月19日20日の両日、岩手県の内陸にある遠野市の「遠野まごころネット」というボランティア組織*に参加した報告です。

  1. 活動概要
  • 年齢制限なく、作業も選択でき、全国からボランティア募集している「遠野まごころネット」に申し込み、花巻在住の友人経由、遠野市の民宿を確保して出かけた。
  • 遠野には前日車で入り、当日早朝に登録、活動要領説明のミーティングから参加。
  • 「大槌町での瓦礫片付け作業;70人」「釜石市での物資配送;10人」等、当日の幾つかの作業グループ案内の1つを選択し、8時過ぎ夫々バスにて目的地へ出発。
  • 9時過ぎに現地到着。更に細分化 された10名程度の班毎に指定された地区で作業を開始。15時過ぎに、昼食をはさみ6時間弱の作業が終了し、再びバスで遠野に帰り、16時半頃、センター前で終了挨拶して解散。
  • 私の場合、19日は陸前高田市で田圃の瓦礫片付け、20日は大槌町で道路上の津波で流されてきた土砂の土嚢詰めを行った。
  1. 現地状況
  • 遠野から、バスで山越え、町から数kmに来ると瓦礫が散乱し、更に近づくと半壊の家、街に入ると木造家屋は全て壊滅。僅かに残った外枠だけの鉄筋のビルの屋上に車や船の残骸が載っている状況。主要道路は瓦礫が重機で取り除かれ、かろうじて通行可能となっているが、街は完全に消失し見渡す限り、荒涼とした瓦礫地帯。
  • ボランティアセンターの石巻専修大学
    「遠野まごころネット」受付前で
    海岸には津波の怖れと遺体等が上がる可能性ありとして我々は近づけなかったが、防波堤も崩れ、陥没の為か海水の溜った地区もあり、地域の様相が一変している。
  • 多少高い処の住宅地区でも、平屋は半壊、崩れなかった2階建て家屋も泥水をやっと取り除いた段階。田畑等は未だ手つかずで、少しずつ片付けが始まった状況。
  • 街から離れた高台で仮設住宅の建設が始まっているが、未だ入居はされていない。
  • 復旧については、犠牲者が多く人口は減少、産業が壊滅しており今後の安全確保も難しい同じ地域で再度街作りをするかという根本的問題がある様に思える。
  • また、全てを失った人々、家族、仕事を失った人々等、2カ月が過ぎ厳しい現実に直面している人々の悩みは深く、心のケアが非常に大切であるといわれている。
  1. ボランティアに就いて
  • 遠野まごころネットは地元が立ち上げたボランティアであるが、各地からの応援もあり、各被災地との連携も良く、効率よく活動の成果を上げている様に思われた。
  • 5月連休中は5~600人のボランティアが集まり、連休後は減少したが、それでも平日200人近く。各種団体もいるが、個人参加が8割、遠くは沖縄、福岡から年齢も70歳代から10歳代迄、老若男女入り混じり、日本のボランティア活動も定着しつつあるとの印象を受けた。
  1. 所感

TVで現地状況は見ていたが、現地に来て、想像を絶する悲惨な状況に言葉を失った。束の間のボランティアで偉そうなことは云えないが以下の様な思いを持った。

  • 人間は自然界の生物の一種で、自然の一撃で生存もおぼつかなくなる存在にすぎず、また、自然についても未だ分らない事が多いという点を謙虚に認識すべき。
  • 今後、どの様に復旧、復興すべきか、また、我々に何が出来るか、そして今後どの様にしたら自然との共生ができるかが問われている。
  • 天災という地域限定の一過性のものによってこれだけの悲惨な状況となった。

この現実を目の当たりにして、地球規模で長期にわたっている「人間による環境破壊」は、近い将来、更に悲惨な状況をもたらす事になるのではないか。

2011.5.27記

*註:遠野市を支援基地として被害のひどい海岸の市町村;山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市を結んで立ち上げたボランティア組織

きむらみねお ディレクトフォース会員 元三井化学工業

↑ ページトップ

2011/06/16(No103)

「復興ボランティアの記」

田中 健一

田中 健一氏毎日家にいて東電のもたつきに苛立っているよりは被災地で汗をかこうと思い立ちました。混乱しているので暫くボランティアは来ないでという空気はあったが、落ち着き始めた4月12日になって友人と2人で石巻に行ってきました。

夜行バスで仙台へ。東北道も傷んでいて時々の衝撃に眠りを覚まされる。レンタカーで石巻へ向かうが、道は自衛隊や工事の車両、日本中のナンバープレートで溢れていました。

ボランティアセンターで登録。名簿は20代、30代ばかりで恥ずかしさを感じつつ71歳と書きこみながら、「歳をくっているので軽労働はありますか」と聞くと「ありまへん」。なんと阪神大震災経験の大阪市役所派遣のお役人。仕事はすべて個人住宅の泥出しと廃棄家具の集積所への運搬です。到着順に年齢、性別関係なく15人位のグループを作って一輪車、スコップなど七つ道具を渡し、「車何台ありますか皆乗れますね。ナビ付いていますか。この住所で家主さんが待っています。希望される作業をしてあげてください。終わったらここへ戻って次の指示を受けてください。では行ってらっしゃい」という調子。

ボランティアセンターの石巻専修大学
ボランティアセンターの石巻専修大学
津波到達時刻で止まった時計
津波到達時刻で止まった時計
被災地現場にて
被災地現場にて

阪神大震災で拙宅は全壊したが、当時と今回とでは景色が大分違う。石巻は死者、不明者5千人超という最大の被害を出した町だが、津波が来なかった地域では見た目はなんともなく、また津波の波頭がぶつかった所と単に浸水を受けた地域とでは景観に大差があります。

最初に行ったのは被害が大きい地域で、まるでさっき水が引いたばかりというように家は大きく傾き、車や船が折り重なってテレビで見る通りの光景だった。ボランティア作業の対象は3階建のマンションの1階で、建物は大丈夫ですが天井まで泥で埋まっていました。近くに魚の倉庫でもあったのか家中腐乱した魚で満ちていて臭気が強烈。病院勤務中で助かったという住人は「この臭いではすべて使い物にならないから捨ててくれ」とあっさり言われます。泥水をたっぷり吸って腐り始めた畳やふとんは信じ難い重さで、畳は4人でないと運べない。3DKを片付けるのに14人で1日かかりました。

感心したのは女子のがんばりで、一見かわいい子なのに力仕事で男子にひけをとらない。男女を区別せず、仕事を割り振る理由がわかりました。

夜は被害を免れた松島の安宿に投宿。最初はテントも考えたが、お風呂で腰を伸ばさぬと翌日がきつかろうと宿屋にしたのが大正解。なにしろへどろが乾いた埃がすごくて、工業用のマスクや眼鏡をしていても、のどや目が真っ赤にはれて痛み、風呂がないともっときつかったと思う。自衛隊が折りたたみの風呂を提供していて市民が列をつくっていました。

こうして丸3日、類似の作業で我が子より若い皆さんと共に気持ちの良い汗を流した。石巻は仙台から45kmという近さもあり、1日に600人のボランティアが集まるそうだが、それでも片付けるのは50軒がやっと。手伝い必要先は1千軒以上とのことだし、我々が帰る頃は宮古などでもボランティア受け入れが始まっており、まだまだ出番はありそうでした。

当初ボランティアを申し込んだ際は、滞在期間中の水、食糧、燃料はすべて持参せよ。排泄物は自己処理せよ。ヘルメット、安全靴等完全装備でなどと厳しい注意書きが送られてきましたが、今はコンビニにも商品が揃い、長靴ゴム手袋などの装備はボランティアセンターで貸してくれるので、DFの森林保全活動の際の装束で十分ですし、仕事のきつさも似たようなもの。被災された方は大変喜ばれるし、新幹線も動いたので気軽に参加されてはいかがでしょう。

連絡先は各自治体のホームページにありますが、石巻ボランティアセンターの電話は

  • 0225-23-6011です。

たなか けんいち ディレクトフォース前代表理事、元東レ、蝶理

↑ ページトップ

2011/06/01(No102)

「メディアの功罪」

猪熊 建夫

猪熊 建夫氏地震の数日後、京都に行っていた。

「天皇陛下が秘かに御所に移ってきたらしい。御所の周りを警官が取り囲んでいるようだ」

メール・チェーンメール、ツイッター、フェイスブック上などで、京都市民の間でこんなデマ情報が飛び交っていた。

明治維新の直後、どさくさにまぎれて明治天皇は江戸城(今の皇居)に下洛してしまった。それから140年余、「天皇は御所に戻ってくるべきだ」というのが京都市民の悲願となっている。この背景があればこそ、デマ情報はあの人からこの人へと伝播してしまったのである。

北アフリカ、中東の民衆蜂起でインターネットの果した役割は大きかった。日本の震災・津波・原発に関する情報受発信でも、ネットは活躍した。放射性物質の拡散シュミレーションなど欧米の研究機関の調査を、ネットで入手した人も多かったようだ。

「新聞・テレビ・ラジオの既存メディアは不安をあおる報道ばかりだった。ネットこそリアルタイムで正確な情報を発信した」という意見が聞こえてくる。 ネット傾斜論者の声である。

私の見方は違う。「ネット情報は玉石混交。既存メディアの報道は楽観的過ぎる」というものだ。既存メディアにも登場してきているが、「福島原発は制御不能に陥る可能性が大で、原発周辺30キロは向こう20年,住めなくなる」というのが私の判断だ。高濃度の放射線のために原発サイトには早晩、作業員が入れなくなるだろう。対応不能になるというのがその根拠である。

素人判断にすぎないが、専門家の分析や解説を当てにしない方がいい、というのをこの2ヵ月半で学びとった。だから、色々な情報を収集したうえで、あとは自分で判断しよう、というのが私の身上である。

ところで、既存メディアやネットの功罪をあれこれ論じているのは、東京以西の暇人である。被災地の人たちは、新聞はもちろんのこと、送配電線と基地局がやられ乾電池もないため、携帯電話、パソコン、テレビ、ラジオが使えない情報過疎に陥ってしまった。

そこで私は、電源手回しラジオを、ネットで購入した(たった2000円)。なお、手前みそではあるが、メディアと報道の在り方について、この1月に『ジャーナリズムが亡びる日』(花伝社)を上梓したことを付記しておきたい。

2011.5.19記

>>> 関連ページ(活躍するDFメンバーズ)

>>> 関連リンク(メディア記事)

いのくまたてお ディレクトフォース会員、元毎日新聞社、船井総研

↑ ページトップ

2011/05/16(No101)

「チャリティー・コンサート」

鶴岡 忠成

鶴岡忠成氏 4月初め、桜も未だ2~3分咲きの上野の東京文化会館でチャリティー・コンサートが開かれ、妻と参加した。言うまでもなく、未曾有の東日本大震災の追悼・支援のためで、尾高忠明氏の指揮と読売交響楽団のコンビにより、バーバーの弦楽のためのアダージョとマーラーの交響曲第5番が演奏された。音合わせの時間が少なかったにも拘わらず、いずれもハーモニーが美しく、厳粛で荘厳な響きに満ち、追悼公演に相応しい演奏であった。

弦楽のためのアダージョは、J.F.ケネディの葬儀で演奏されて以来、追悼演奏の定番と言われている曲だが、照明を落とした舞台上で犠牲者の霊や被災者の胸に届けとばかりに精魂こめた尾高氏と読響の名演は、多くの聴衆の心に強く訴えるものがあった。当然のことながら拍手は控えられたが、聴衆が深い感銘を受けたであろうことは、全プログラム終了時の鳴り止まぬ拍手からも容易に想像できた。因みにこの曲は昭和天皇崩御の際にもN響により演奏され、放映もされたそうだがはっきりとは覚えていない。

マーラーの5番は、以前ザルツブルグ音楽祭でラトル/ベルリン・フィルの演奏を聴いたことがあり、好きな曲の一つである。この曲が何故選ばれたかは解説になかったが、私には、よく知られたトランペットのファンファーレに導かれる第1楽章の葬送行進曲と、生命力に溢れた未来を暗示するかのような第5楽章のロンド・フィナーレが、大災害の悲劇性と復興へ向けての力強い希望とに重なり合うように思われて、滅多にない感動を覚え暫し黙祷を捧げた。

実はこのコンサートは、当初、東京・春・音楽祭の目玉の一つであったマーラーの大地の歌が、指揮者や歌手の来日取り止めによって中止を余儀なくされ、急遽代替企画されたもので、幸い、尾高氏と読響の強い熱意とボランティア精神により実現したと聞いており、心から敬意を表したい。

3.11以後、日本を離れた外国人は20万人に上るとされ、各界、各層に及んでいるが、音楽界でも来日中止や公演の中断が続出した中、フィレンツェ歌劇場公演の中断で一旦は離日したズービン・メータ氏の如く、第九の慈善公演指揮のため再来日した外国人のいることを付け加えておきたい。

 

*編集註:掲載ビデオは YOUTUBE より(1988.02.29 NHK交響楽団 サントリーホール)

つるおかただしげ ディレクトフォース会員、元丸紅

↑ ページトップ

2011/05/01(No100)

メンバーズ・エッセー100号に思う

児玉 亨

児玉亨ディレクトフォース(DF)のホームページ上に「メンバーズ・エッセー」というコラムがスタートしたのは2007年3月16日で、第1号は当時のDF代表理事水野勝氏が書かれました。

今回が丁度100号に当たりますが、4年にわたり100人近い会員の方々が、世相について、人生について、芸術文化についてなど様々なテーマでエッセーをお寄せくださり、お蔭さまでDFホームページの中でも会員の思いがストレートに伝わる特筆すべきコラムになっていると思います。

これらエッセーの中にはDF運営についてのご意見も多数いただいており、私たち事務局員にとっても大変参考になり誠に有り難いことと感謝しています。例えば5年後のDFの在りようを心配してくださったり、またサラリーマン時代とは違う時間軸の中で、DFで過ごす充実した時間が増えて喜んでいるといった応援メッセージをいただいたりと、温かみのあるご意見にどれほど勇気づけられたかわかりません。

不幸にも3月11日に東日本大震災と名づけられた激甚災害が発生しましたが、発生直後から、災害に関する沢山のメッセージが会員のみなさんから寄せられています。そこに込められた被災者を思いやるご意見や、何らかの支援をしたいという強い願いにもとづいて、DFで義援金の募集活動を開始したところ、たちどころに200万円を越える浄財が集まりました。

更には募金だけでなく、会員にできる被災地の復旧、救援活動をしようという声も多数寄せられており、どのような活動ができるか検討しているところです。

このように、たとえ少しの力でも社会貢献に役立つようなボランティア活動を行うことも、DFの大切な活動の一環であると思います。

今世紀は高齢者対策がどこの国にとっても重要なテーマになっています。DFでのいろいろな活動が、「高齢者対策」という厄介者対策的な意味合いのものではなく、もっと夢のある活動へと転換させる一つの大きな「解」となるよう、今後とも活動を拡大、充実をさせていかなければならないと気を引き締めているところです。

会員の皆様にはDFの活動に更なるご協力をお願い申し上げる次第です。

こだまとおる ディレクトフォース事務局長

↑ ページトップ

2011/04/16(No99)

東京の鬼門

小宮山直子

小宮山直子氏 黒々とした社殿の奥に向かって、仄かな灯りの中を長い廊下が続く。白い袴を着けた神職が、箱のような物を恭しく捧げ持ち、廊下の先を横切っては消えて行く。その廊下を這うように、重く、静かな波動が流れ出てきた。ちょうど秒針の進みと速度を同じくするくらいに波打つその波動は、社殿を前にする者の背後へと消えて行く。まるで何者かをねじ伏せんとする強大な力を持っているかのようであった。

この社殿を訪れたのは、もうかれこれ4年くらい前になるだろうか。浅草に、かつて江戸の「鬼門封じ」とされた神社があると夫から聞いて、二人して出かけた。堂々たる浅草寺の右手、まるで浅草寺に遠慮するかのように一歩引いて、一見質素な神社が位置する。これが浅草神社である。参道から狛犬の間を抜け、仄暗い社殿に向かい手を合わせた。その時、社殿の奥から、微かな波動が伝わってきたのである。徐々に波動を捉える感覚が増していく。その波動は社殿を溢れ、参道を渡り、おそらくは東京の街へと流れ出していった。

浅草神社江戸の鬼門封じと言えば、寛永寺が名高い。しかし、実はこの浅草神社こそが真の鬼門封じであったという説がある。当時の戦において、敵の鬼門封じを破壊する「鬼門破り」は重要な戦術の一つであったとか。江戸を守るため、徳川家は敵の目を寛永寺に引きつけ、欺くことで、鬼門破りを免れようとしたとも考えられる。そうであれば、浅草神社がいかにも目立たない風情なのも納得できる。そして、あの果てしなく重い波動を思うと、「鬼門封じ」や「鬼門破り」にも何かしら真実味があるように感じられる。

古来、日本人は大地の気を敏感に感じ取ることのできる民族であったと言われている。「鬼門」は中国由来の考え方ではあるが、それもまた、日本人は独自の実感を伴って自らの中に取り入れていたのではなかろうか。戦前・戦後にわたっての欧米に追いつけ追い越せで、日本人は本来持っていた幾多のものを失ったように思えてならない。もちろん、往時に戻ることが良い訳ではなく、戻ることが出来る訳でもない。それでもなお、日本人の本来持っていたものを見直し、心の奥底に眠る感覚に目を開いてみるのも悪くないのではないかと思う。

こみやまなおこ ディレクトフォース会員・元(株)KPMG FAS
(2月20日投稿)

↑ ページトップ

2011/04/01(No98)

「第2の復興」

倉地 正

倉地正氏 3月11日14時26分。未曾有の巨大地震・巨大津波が東北・関東の太平洋沿岸を襲った。マグニチュード9、1000年に1度という巨大地震による大津波は10メートルの防潮堤も易々と越え、津波計の針は吹っ飛び、31か所で機器が流失した。有識者の想定を遥かに超え、万全とされた対策も,もろくも崩れた。テレビで視る巨大津波の猛威やこの大災害の惨状に皆、息を呑み声も出ない。そして福島第一原発も想定以上の津波により冷却機能が麻痺し、放射能汚染の悪夢が現実問題となった。国難ともいえる非常事態である。

「天罰」発言の都知事、詰問調のキャスター・リポーター、不安を煽り気味のマスコミ報道,かかる時に党利・党略に拘る野党・与党、果ては震災便乗詐欺などなど、許せない。一方、被災した人達にみられる忍耐強さ、秩序正しさ、助け合いの精神は海外でも絶賛されている。その人の精神性の高さはこうした非常時に顕れるものだ。非難・批判は止め、ひとつにまとまる時だ。

65年前、日本は敗戦の荒廃から雄々しく立ち上がった。今、再び「第2の復興」に向け、不撓不屈の精神で敢然と立ち向かおう。「第3の開国」より「第2の復興」である。

あれから1週間、原発事故現場で、使命感に燃え命を賭けて懸命に働く人達がいる。避難所には、希望を捨てず明日に向かって生き抜こうとしている人達がいる。彼らに皆で心を寄せよう。流言飛語に踊らず、買いだめに走らず、節電・省エネに協力することは、今、我々に出来ることだ。「日本人の心」を取り戻し、「日本の底力」を発揮しようではないか。

"頑張れ、東北!" "立ち上がろう日本!"

 

2011・3・18 記

くらちただし デイレクトフォース会員
元東京銀行・兼松・エーザイ、現兼松繊維・ハーミーズ・シンフォニア テクノロジー

↑ ページトップ

2011/03/16(No97)

事業としての里山再生

杉野 恭

杉野恭氏 日本の原風景である里山に人手が拘わらなくなって荒廃していると言われて久しい。そこで、事業会社が本来の業務を行なうなかで、荒れた里山を蘇らせることは出来ないか。里山の自然を残しながら、人が住み、自然と共生しながら生活を営んだら、里山と人の関係が復活して、里山も元気になるのではないか。

健康的で行動力があり、ITを駆使して幅広い情報を得ることが出来る、所謂アクティブ・シニアが里山のなかで居住できる新たな生活空間を創り、新しいライフ・スタイルを提案する。里山における居住、農的活動、自然活動、レジャー・リクレーションを通して健康的な生活を営む。そこでは自然空調、太陽光、地中熱、バイオマスなどの再生可能エネルギーを用い、域内の移動手段は電気自動車という、脱石油エネルギーの環境共生の街、所謂スマート・タウンを出現させる。

私が勤務する日本土地建物(株)が所有する平塚市の西部の大磯丘陵のなかにある後楽園ドーム30個分の広大な里山を舞台に、平塚市、東京農大、地元自治会傘下の協議会と一緒に4者協定を結び、産官学民が連携して前述の様なプロジェクトを、デベロッパーの事業として進めています。高齢社会におけるアクティブ・シニア層が生き生きと生活出来る街の創造、CO2の排出を限りなくゼロにしたエリア単位での環境に優しい街の実現、全国至る所で起きている荒廃した里山の再生、農業の衰退による地域活力の低下の防止、など今起きている社会の諸問題の解決に繋がるのではないでしょうか。

自然の保全というと、とにかく自然に手をつけない、という方向に行きがちですが、山でも里でも、自然を損なうことなく、人が生きる道が残されている筈です。自然の中に快適な生活の場を創造する。このようなイノベーションが今期待されており、これが日本経済を内需型にするのではないでしょうか。

(すぎのやすし ディレクトフォース会員・元第一勧業銀行・現日本土地建物、ヤナセ)

↑ ページトップ

2011/03/01(No96)

ホームページに思う

常信 伊佐夫

常信伊佐夫氏 一般社団法人ディレクトフォースのホームページ業務に携わって4年余りになる。もっぱらコンテンツ編集に追われている現状だが、最近の閲覧状況から感じたことがある。

組織の発足当初は会員のためのホームページを目的とした。そのため年間の閲覧数はわずか1万2千ページ程度にとどまっていた。会員以外の方にとっては、アクセスをブロックされるページが多くて面白くないサイトであったと思う。

ウエブサイトは会員が組織の活動情報を共有するためだけのツールではなく、我々会員が一般社団法人として行っている社会貢献活動をはじめ様々な情報を発信することによって、組織の社会的存在意義を広く人々に理解していただくのに役立つはずとの認識から、2010年初めにほとんどのページを公開することに踏み切った。その結果、直近1年間で見ていただいたページ数は10万に届くようになっている。閲覧ユーザー数は約1万3千人。DFの会員600人として95%は会員以外の外部の方に見ていただいていることになる。

良く見られているページは、新入会員を紹介した会員情報のページやディレクトフォースの設立主旨、仕組みについて、人材マトリクスあるいは活躍するDF会員のページである。そこから読み取れることはディレクトフォースとはどんな組織だろうか、どのような人が会員なっているのだろうかという関心を持ってアクセスされる方が多いということだ。ただ、ディレクトフォースの活動実体を理解していただきたいという観点からすれば、環境を守るために行っている「緑のボランティア活動」、子供の理科離れを防ごうと小中学生を対象としておこなっている「出前理科実験」など閲覧していただきたいページはいくつもある。そのためにコンテンツをもっと魅力あるものに仕立て、多彩なウエブサイトを組み立てていくことが求められていると受け止めている。

面白いのは、21ある同好会のページをよく閲覧してもらっており、趣味というのがひとつの有力な切り口になっていることだ。例を挙げれば、歌舞伎同好会はメンバー約60人を擁する大きな同好会になっているが、このジャンルでグーグル、ヤフーの大手検索サイトのトップにランクされている。

サイトを検索する方の気持ちを理解しようと一念発起、70の手習いで最近自分のホームページを立ち上げてみた。これがホームページ担当業務に少しでも役立てばと願っている。

(じょうしんいさお ディレクトフォース会員・元アサヒビール)

↑ ページトップ

2011/02/16(No95)

「新春2600キロのドライブ」

橋本 せつ子

橋本せつ子氏 東京に住み始めて20数年になりますが、年末年始はいつも人気の少なくなった東京でのんびりと過ごしていました。今年は、年末早めに仕事を終えたこともあり、ふと思い立って車で両親のいる福岡まで往復してみました。これまで東名自動車道は御殿場までしか走ったことがなく、両親にはかえって心配を掛けてしまいました。今年の年末年始は強い寒波に見舞われ各地で大雪の被害が出ましたが、幸いに私が走った日はどこもお天気に恵まれ、あちこち寄り道をしながら1週間かけて往復2600キロのドライブを楽しみました。

富士山
由比PAから見た富士山
 12月26日深夜に東京を出発し、足柄サービスエリア(SA)で仮眠を取り早朝朝日を受けて刻々と色を変える富士山を見ながら西を目指しました。まだ休み前の平日でしたのでトラックが多く、日本の産業の動脈を体感しました。その日は東名自動車道から伊勢湾岸自動車道を一気に走り抜け、さらに伊勢自動車道を通って、伊勢神宮まで行きました。伊勢自動車道は例の社会実験で通行料は無料ですので、東京から伊勢まで480キロ走って高速料金はわずか1550円でした。2010年に伊勢神宮の来訪者が860万人と過去最高を記録したのも肯けます。年末の伊勢神宮は静かでした。翌日は名阪道路を通って奈良に寄りました。2010年の奈良は遷都1300年で東大寺、興福寺周辺は大変な賑わいでしたが、今回は車でなければなかなか行けない奈良の南、明日香村周辺を回ってみました。残念ながら万葉文化館は年末で休館でしたが、どこも人は少なく、駐車場もがら空きでゆったりとした時間を過ごすことができました。年末の観光はお勧めです。
 今回、高速道路を走ってみて経済成長を支えてきた日本の交通インフラの充実ぶりを改めて実感しました。名古屋の伊勢湾岸道路、新名神などの新しく作られた高速道路は車線の幅も広く、走りやすい工夫がされています。さらに目を見張ったのは、サービスエリア(SA)、パーキングエリア(PA)の充実ぶりでした。2005年の日本道路公団分割民営化を機に、高速道路のSA、PAのビジネスが急速に進行しています。和菓子、洋菓子、ベーカリーなどのおしゃれな店が増え、それぞれの地区の特産品、限定商品を用意してどの店も大繁盛です。今SA、PAは休憩、給油のための立ち寄りの場から、そこに行くのが目的となる新たな「ミチナカ」ビジネスを生み出しています。NEXCO3社の2010年3月期の財務諸表をみるといずれの会社もSAPA事業の伸びが大きく、その営業利益は道路事業の営業利益を上回っていることが判ります。長年かけて築き上げてきた高速道路という「ハード」の上で、日本独特の気配りの行き届いた「ソフト」が日々進化しています。これは海外の高速道路ではまず目にしない光景です。この新たなサービスビジネスを海外に輸出してはどうでしょうか。高速道路を通して日本の持つ底力を体感した年末年始でした。

(はしもとせつこ ディレクトフォース会員 株式会社バイオビジネスブリッジ)

↑ ページトップ

2011/02/01(No94)

「バリ島」と私

貝塚 正彦

貝塚正彦氏 前職を卒業する直前に会社の後輩からバリ島で一緒に仕事をしませんかとの誘いを受け た。話を聞いてみると、彼の恩師が留学生を受け持った縁で、バリ島に土地を持っている という。その土地を借りて長期滞在型のヴィラを建てるという計画だった。

それまで一度もインドネシアへ行ったことはなかったが、何はともあれ一度現地へ行かないことには始まらないと、2006年7月に下見にでかけた。

場所は島の東部の Amed という海岸、周りは既に開業しているヴィラがいくつかあり、欧米人がのんびりと過ごしていて、プライべートビーチで最高のロケーションであった。

ただ残念なことにまだインフラが整っていない。空港からは車で5〜6時間、ショッピングを楽しむようなところはなく、バリの踊りやガムラン音楽を見聞きするところもない。タクシーもないので、移動はもっぱらバイクかホテルの車である。ひたすら自然を楽しみながら過ごすことが苦にならない人には絶好の場所であるが、私は3日で飽きてしまった。

既に長期滞在型のヴィラを建てていた人たちの意見も聞いてみたが、大方が Amed は時期尚早とのこと。ヴィラのオーナーになることは儚い夢となってしまった。

ビラ建設地
Amed のヴィラ建設予定地
木彫り工房
Ubud(バリ文化の中心地) の
木彫工房

しかし何回か訪問しているうちに、現地の人たちや現地に住む日本人との交流ができ、これで諦めてしまうのは心残りであったので、バリの木彫品、布などの工芸品をネットで販売することにした。

バリの人たちは小さい頃から男の子は木彫りや絵画を、女の子は機織りや踊りを学ぶ。通りを歩いていても簡単なお土産物から組み立て式の高級家具まで多種多様な木彫品が並んでいる。

布も専門店があちらこちらにあり、ソンケットといわれる儀式に使われる絹製品に刺繍を施した豪華なものから、一般的なバティック(ロウケツ染め)・イカット(絣織り)などを売っている。小さな村へ行くと昔の布が残っており、土地によってモチーフや材質、織り方の違いもあるようだ。

最近になって、昔行われていた草木染めを復活させようと研究をしている学校の先生と出会い、以来行くたびに親交を重ねている。

他にも興味深いことがたくさんあり、もう少し若ければいろいろ自分でやってみたいところだが、これからもできた縁を大事にして、バリの素晴らしい工芸品を見つけ、皆さんに紹介していきたいと思っている。

(かいつか まさひこ ディレクトフォース会員、元金門製作所、現トゥリュック)

↑ ページトップ

2011/01/16(No93)

都市と近郊住宅地の樹木の総量を増やす身近な環境対策

石川 通敬

石川通敬氏 昨年10月私は古稀を迎えた。これを区切りに60歳代の生活を見直し、何を止め、何を残る時間に使いたいのか考えた。その中で是非取り組んでみたいと思ったのが、「都市と 近郊住宅地の樹木の総量を増やすためのボランティア活動」である。

私は子供の頃から庭や園芸が好きたったが、40年前から都市と近郊住宅地の樹木に強い関心を持つようになった。契機はニューヨーク駐在である。初めての海外生活で、見るもの聞く物全て珍しく感激したが、アメリカの緑の豊富さには圧倒された。東海岸の都市と住宅地を埋め尽くす大きな樹々と広々とした芝生は、この世の物と思われぬほど美しく、感動した。その中でも印象深かったのは、公園のように整備された中を貫くパークウェーである。マンハッタンの北部の郊外に張り巡らされた多くのハイウェーが、1930年代に造られたと聞いた時、アメリカがいかに時代の先を行っているのかと驚き、敬服した物である。

帰国後もしばらくは大きい木が恋しくて、新宿御苑、砧公園や目黒の国立自然教育園に家族でよく出かけた。以来日本の都市と近郊住宅地の樹木を、関心を持って眺めるようになったのである。観察するうちいろいろな疑問が湧いた。例えば何故緑豊かな立派な木を、無残に枝と葉を極限まで切り落とし、丸太棒のようにするのか。学校や工場のように充分敷地があり、危険性もないと思われるところにある木を、定期的に刈り込み大きく育つのを押さえ込むのか等枚挙に暇がない。

日本は世界有数の森林を保有する国である。京都をはじめ全国には世界に誇る日本庭園があり、神社には鎮守の森が残っている。世界の大都市と比較して貧弱と言われる公園も、本田静六と言う偉人のお蔭で全国に西洋科学に基礎をおく公園が造られている。最近では里山と言う概念を世界に発信する動きもある。そうした事例からみて日本人は、樹木の価値がわからない国民でないことは明白である。しかしながら都市と近郊住宅地においては、辛うじて残っている樹木を、無神経に伐採したり、刈り込む行為が放置されている。

私は2年ほどDFを休会していたが、近々復帰して、70歳代テーマとして「都市と近郊住宅地の樹木の保全による緑の総量の増加問題」をDF有志の方とお話ししたいと考えているところである。

(いしかわ みちたか ディレクトフォース会員、元三菱信託銀行)

↑ ページトップ

2011/01/01(No92)

2011年 新年のご挨拶

松村 洋

松村 洋氏 会員の皆様に於かれては御機嫌良く新年をお迎えのことと存じます。

 

DFの昨年を振り返って

9月の総会でご報告したとおり、DFにとって財務的には大変厳しい1年でしたが、会の活動は一回り大きく厚くなりました。

昨今の経済情勢の影響で事業部門の収入は前年に較べ約1割(14百万円)の減少で、事務局の再度の給与引き下げ、組織のスリム化等運営費の圧縮に努めたものの第8期(2010年8月)の収支(税引き後)は約2百万円の赤字計上を余儀なくされました。

一方、会の活動の方は、会員数は順調に増加し(12月末実働会員数(569名)、活動分野ではコンサル部門が収益面での中核である点は変らないものの、大学からの講師派遣要請、会員の支援を希望するベンチャー企業の増加が顕著となり、また理科実験活動への高い評価、監査役研修会に多くの新しい会員の参加、更には環境部会の発足等、会員の参加の場は着実に充実して参りました。

 

新しい年に目指すこと

依然として厳しい環境下での運営で課題は少なくありませんが、前向きに取り組んで行きたい点は

  1. 大学の講座数の増加、ベンチャー支援等、会員の参画する機会増が見込める分野へのマンパワーの補強
  2. ボランティア活動(理科実験、森林保全活動、高齢者支援等々)に対し、厳しい財政の中であっても参加される会員の負担を多少なりとも軽減する措置を講じ、活動の継続を支援する
  3. 会としての発信力を更に強化するべく、パンフレットの改訂に続き、ホームページの充実を図る

いずれも内外でDFに対する認識を深め、活動の場を更に大きくするために欠かせない分野だからです。今年も〈社会の役に立ちたい〉というDFの旗印を堅持しつつ、会員皆様が楽しく活動出来る場を広げることに力を注いで参りたいと思っております。

(まつむら ひろし 一般社団法人ディレクトフォース代表理事)

↑ ページトップ