2009/12/16 (No67)
「環境問題に思う」
長谷 礼三
私が地球環境問題に関心を寄せ始めたのは10年ほど前に遡る。ごく限られた地域での自然破壊の事象を見て感じた素朴な疑問からです。私はこの分野で仕事をしてきた経験はなく、勿論専門的な知識を有している訳でもありません。それでは「何故」と問われると、その発端は偶々私の故郷、敦賀を訪ねる機会が多くなり、少年時代を過ごした生家や学校の周辺の地勢が大きく変容し、植物の生育状況が変化していることを見聞して疑問を持つようになったことにあります。
私が生まれ育った松島町は敦賀湾の西南に位置し、背後には東西約2キロメートルに亘ってクロマツ、アカマツ合わせて1万2千本余りが生い茂る風光明媚な白砂青松の松原公園が拡がっています。「気比の松原」として、静岡の三保の松原、佐賀唐津の虹の松原と並んで日本三大松原の一つとして有名です。この公園は市民の憩いの場であるとともに、四季折々に食用野草の宝庫だったし、秋には松茸狩り、夏には松林に続く真っ白な砂浜、遠浅で澄み切った海での泳ぎ、魚釣りなど楽しんでいました。またどの家庭にも井戸水や掘り抜き水があり、地下水が溢れ出て美味しい飲料水となり、緑と水に恵まれた素晴らしい環境でした。
しかし70年代後半以降、市街地開発や原子力発電所建設に伴う公園の一部宅地化や中央部を貫通する自動車道路敷設により、松林や下草の生育に変化が現れてきました。海岸も年々浸食され海浜が狭くなり、また海面に築いていた突堤(海面から1.5メートル)は今や水面すれすれに沈下するなど地勢変化が生じています。これら様々な地勢の変化は日本各地で、更には地球全体に多様な形で生じているといわれます。
地球環境問題は広範かつ無限の課題を抱えているといっても過言ではない。人間が解決できる領域は限られるかもしれない。しかし我々一人ひとりの市民が意識して環境汚染を除去し、自然保護(手入れ)活動をすることによって破壊の進行を軽減することに役立つのではないかと考えます。私も「70の手習い?」で遅ればせながらこの分野の知識を深めて「緑」と「水」を守る活動をしていきたいと願う今日この頃です。■
(はせれいぞう ディレクトフォース会員・元大正海上火災、
ライフサービス、現アキプラニング)
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2009/12/1 (No66)
「低価格競争時代こそホスピタリティ」
東 泰秀
リーマンショックに始まった世界不況ですが、今や身近なところで低価格競争の嵐が吹き荒れてきだしました。このままでいくと物価下落が企業収益の悪化に影響し、いよいよデフレの様相を呈してきた感じです。
いろんな業界や分野で息が詰まるような値下げ競争が行われています。
一例を挙げれば、話題になったジーンズについて、ユニクロ系列のジーユーが990円という口火を切ると、ザ・プライスが980円、イオンとダイエーが880円、次いで西友が850円、ついにはドンキホーテが690円というところまで落ちてきました。
同じようなことがスーパーの食品や外食・中食業界でも起こっており、PB商品をはじめとする低価格化、居酒屋、牛丼店や弁当類の値下げ競争など際限がありません。
ここまで落ち込むと体力を消耗し、仕入先を泣かせ、人減らしに走って、雇用問題にも影を落とすことになりそうです。
一番思うことは、値下げをしたからといって、その企業の魅力が増すわけでもなく、憧れを感じてもらえる店づくりも出来ません。要は値下げに走らず、新たな魅力ある付加価値をつけた商品力向上に努めて客を惹きつけることだと思います。
特に外食業界については、この仕事に長年携わってきた私としては気になることばかりです。
外食ビジネスの成功の秘訣は固定客づくりに尽きると私は思っていますが、そのためには客のハートをしっかり掴むためのホスピタリティあふれる接客と商品開発が最も重要です。
時々、大学のシリーズ講座の中の一端を担当させてもらい、若い学生たちに外食業界の話と私の気持を伝えているところです。
今、就職難で苦しんでいる彼らに、「こういう時代だからこそ、相手の人の立場をしっかりと考えて大切にしてあげる、そんなホスピタリティ行動が一番大切なのだ」と話をしています。■
(ひがしやすひで ディレクトフォース会員・元アサヒビール)
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2009/11/16 (No65)
「老後の楽しみ」
小西 順
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私の趣味は音楽を聞くことです。今年の3月末まで5年余にわたりニューヨークで駐在生活を送りましたが、この間、ジャズのライブやクラシックのコンサートを数多く聴きました。また、アメリカではCD/DVDが非常に安いので、家で音楽を聴くのを老後の楽しみにしようとこれはと思うCD/DVDを手当たり次第に買い込んで帰国しました。昔から持っていたものをあわせると今では1000枚に近いコレクションになっています。
日本に帰ってから最新のプレーヤーやアンプを買うべくオーディオ雑誌を読みあさりましたが、ピュア・オーディオの世界にもコンピュータ化の波が押し寄せてきていることが徐々にわかって来ました。ご存知のように、CDプレーヤーをアンプにつないでスピーカーから出てくる音を聞くというのが従来のやり方ですが、将来はプレーヤーの代わりにパソコン、或いはそれに代わる機器をアンプにつなぎスピーカーから音を聞くということになります。
即ち、音源をハードディスクに貯めておくという訳です。音源はインターネット経由で、或はCDから音楽データを吸い出してハードディスクにため込みます。音源をため込む時はロスレス圧縮(一旦はデータを間引いて取り込むが、復元時には元の完全なデータに戻す)であるFLAC、或いはWAVという圧縮しない形式などでファイル化されますからCDの音と同等の音質が得られます。
パソコンではハードディスクに音源を取り込む時にデータの取り込みミスを補正しますので、プレーヤーを使ってCDを聞くよりもハードディスクにため込んだ音源を聞くほうがいい音になるとも言われています。CDのジャケットや解説記事のデータもすべてネットから取り込んでハードディスクに保存しておくことになります。今では若者たちが街中や電車の中でiPodを使って圧縮された音楽を聞いていますが、このやり方がピュア・オーディオの世界にも押し寄せてきている訳です。この流れが近い将来は映像にも及ぶことは間違いなく、そうなれば私の1000枚近いCD/DVDは一度ハードディスクに取り込んでしまえば無用の長物となることになります。
もちろん音源の保存や取り出し方がどうなろうとも、音楽を聴くという老後の楽しみにはなんら変わりはありませんが、狭い我が家で嵩高く場所を取っている私の1000枚近いコレクションを今後どうしようかとあれこれ考え始めた今日この頃です。■
(こにしじゅん ディレクトフォース会員・元伊藤忠商事、中井工業)
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2009/11/1 (No64)
「イギリス旅行記」
守屋 雅夫
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旅行に行く前に事前にいろいろ準備する性格ではなく、旅行の準備はすべて妻任せ、イギリス旅行の詳細日程も成田を出発してからの機内で初めて確認、全行程バス移動、朝早くから夜遅くまで移動する強行日程であることをここで初めて知り、少し後悔するもすでに遅し。ロンドン、ドーバー、バース、カッスルクーム、バイブリー・ハワース、湖水地方、ウェッジウッド・プレナム宮殿、パリ市内全行程7日間バス移動という強行日程。
バスの車窓から見られる緑一色の田園風景は長閑なもので、羨ましいほど時間の経過が止まっているような眺め。街並みのいたるところに花が飾られ、これが建物とよく調和し、宮殿・庭園・農場等見るものすべてに歴史の重さを感じさせられます。中でも世界遺産ブレナム宮殿の庭園の美しさは「素晴らしい」の一語です。
そしていよいよ本命の湖水地方。と言うのも、このツアー参加を決めた要因の一つに、以前ピーターラビットのライセンス交渉を行った際そのクオリティーの高さを誇っていた相手の顔を思い出したからでもあります。
ウィンダミヤ湖遊覧観光船に乗りゆっくり湖畔を眺め、湖畔を散策していると、自然にピーターラビットの世界に入っていく感じがし、ピーターラビットの素晴らしいキャラクターが生まれた理由も少し分かった様な気がします。
そのまま気持ちよく就寝と思いきやここで大変な事件が発生。ホテルのバスタブのお湯を廊下まで溢れさすという失態を起し、翌朝フロントから500ポンドの請求を受けビックリ。幸い保険嫌いの私が成田空港で何気なく加入した海外旅行保険が役に立ち全額保険で処理ができました。皆さん保険にはぜひ入っておくことをお勧めします。
旅行最終日はロンドン市内フリー観光、妻と二人で市内見物、私は30年前に一人でロンドン市内に来たことがあり、当時とどれだけ変わっているのかも興味の一つでしたが、観覧車や変わった建物が少し増えた程度で、街並み・地下鉄の雰囲気は当時のままほとんど変わっていません。セント
ジェームスパークの芝生に寝転がり、買ってきたフイッシュアンドチップスを食べていると30年前と全く同じ感覚を味わうことができた。
中国上海の激変を5年間見てきた私には少し異常に思えましたが、これがイギリスらしい時の流れ方か、と一人で納得する。
歴史遺産の建物は過去の遺跡であることが多く、現在社会とは離れた存在であり、そこに生き生きとした存在感・活力をあまり感じないものが多いが、その点イギリス人はそこに現在の人が生活しています。古き状態を良しとし、皆さんが不便な生活を(不便と感じていないかもしれませんが)
継続しています。
いままで、少し羨ましく、少し馬鹿にしていた添乗員付きの海外旅行でしたが、初めて参加してみて、ツアーの旅も馬鹿にしたものではなく、イギリスの歴史を感じさせる田園風景、数々の古き良き街並み、歴史観・風土の違いどこをとっても重厚さを感ずるとともに現在を生きているロンドン市内の喧騒をも垣間見せていただきました。
妻との初めての海外旅行、孫へのお土産一杯の楽しい旅でした。■
(もりやまさお・ディレクトフォース会員・元キューピー)
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2009/10/16 (No63)
「オランダ法人税減税裏話」
大槻 紀夫
私が赴任した2003年のオランダは、ユーロ圏の中で最も低迷を続けていた。この状態を憂慮した在蘭日本人商工会議所(JCC)は、オランダ政府に対して税制、過剰な労働者保護制度などの改革を強く訴え続けた。2005年から2年間、私はJCCの会頭をしていたので、その間オランダ政府と折衝する役割を担った。この間、印象的だったのは、オランダ政府の敷居の低さ、オープンさである。財務省は、われわれの要望に実に丁寧に耳を傾けてくれた。
JCCの要望を反映し、法人税は2005年に34.5%から31.2%に、翌2006年には29.6%に、2007年には25.5%にと3年間で合計9%引き下げられたのである。
法人税が25.5%に着地する過程で、日系企業に対し特別な配慮があったことは忘れ難い。オランダ政府は、一旦翌2007年からの法人税率を25%にすると公表したのだが、25%以下の国は、日本の税務当局より租税回避地とみなされる。その結果、少なからぬ在蘭日系企業が実質的に日本の高い法人税率40.7%を課せられることになる。
これを回避するため25%に若干の税率を上乗せしてもらう必要があったので、急遽、当時のワイン財務副大臣と面談し善処を要請した。この時のワイン財務副大臣の誠実な態度には深い感銘を受けた。彼は開口一番、「申し訳なかった」と謙虚に謝られたのである。日系企業のために一旦公表した内容を修正するのは、米国などの他の外資やオランダ企業が既に25%の税率が実現すると期待していただけに、大変な困難があったに違いないが、法人税率は25.5%と、日系企業にとってベストの決着になった。
EU主要国の平均実効法人税率はおよそ30%弱である。これに比べ、日本は40.7%だ。この日本の法人税率は、外資に対しては「日本に来るな」、国内に立地する企業に対しては「日本から出て行け」と言っているようなものではないだろうか。
オランダの民間部門の1割は外資に雇用されている。外資の投資残高は約5千億ドルで、世界7位、そのGDP比率は74%にも達する(2006年)。これに比べ、日本に対する外資の投資残高は、約1千億ドルで世界21位、GDP比率はわずか2.2%に過ぎない。
外資は雇用だけでなく、高生産性と、イノベーションをもたらし、経済の活性化を促す。日本政府には、オランダのように、巨額の外資を引き付ける努力を本気でして欲しいと願っている。■
(おおつきのりお・ディレクトフォース会員・元帝人)
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2009/10/01 (No62)
「日本人と欧米人」
梅里 泰正
現役時代ドイツとアメリカの駐在を経験しました。この間に感じた「日本人と欧米人の違い」を列記してみました。外国で生活し、外人と接してみると、日本人同士では考えられないような考え方・反応に出くわします。これ等の理由は、相手の国民性や文化の相違によるところが多いと考えています。
国民性や文化は、その国の成り立ち、地理的関係、構成民族・人種、政治体制、気候、風土、宗教、教育、過去からの習慣・慣習などにより形成されます。
これらの違いが国民性や文化に影響しているのでしょう。
違うなと感じた項目:
- 日本人は自分の非を認める「謝罪」の言葉を簡単に使いすぎる。
「謝罪」と「すみません」の意味は大きく違う。挨拶程度に「謝罪」する国民は少ない。
外国語が話せない、聞かれた道を知らないなどは「謝罪」することではない。
- 知識で評価される諸外国では、何事でも説得しようと屁理屈をこね、知らない道順でも説明する。
日本人は自分の意見を明確にせず、人前での発言を控え、「多分」と言う単語を多用し、主張をぼやかす。
- 日本人は「約束・信用」を重視し、言葉だけでも契約する。文章化での確認をしない。
何処でも手に入る印鑑を重視し、キャッシュカードでもサインを確認しない。
契約書でも、解約条件に「両者の話し合いによる」などと無意味な条文を記載する。
- 外国では自己コントロールを重視する。
酔っ払うことを嫌い、ドイツではコントロール出来なくなるのでビールも飲み干さないと注がない。
肥満や禁煙できない人のマネージメント能力を疑う。
マナーとして「オナラ」は許すが、「ゲップ」は非難する。
- 海外では宗教が生活と密着しており、善悪の判断基準になっている。
イスラム世界では信仰無きものは人と認めず、ビザも発給しない。
- 日本は安全な社会に慣れきっていて、用心をしない。
置き引きなど想像もしない。ホテルのチェックインで荷物を取られ、白タクには引っかかる。
アメリカでは交通違反をしたら、警官を驚かさないようにじっとしていないと撃たれる。
- 交通ルールの違い
欧米では赤信号でも右折(日本では左折)可能。
ドイツでは踏み切りに遮断器があれば一旦停車を禁じ、赤信号や横断歩道以外での人身事故は歩行者を罰する。
- その他一般
・ネクタイのストライプは、日本とヨーロッパでは左傾斜に対し、アメリカは右傾斜。
・エレベータで他人と乗り合わせたとき、アメリカ人は挨拶し、日本人は目をそらす。
DFには多くの海外経験者がおられます。皆さんが経験した相違点を纏めてみると、面白い読み物になるのではと考えています。■
(うめさと やすまさ・DF会員・元富士電機/現早稲田大学理事)
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2009/9/16 (No61)
「有尽無報」
丹下 了遂
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「昭和50年5月8日(月)連休明けの初日、参議院会館533号室をノックし中に入りました。この日から15年に亘り故参議院議員藤田正明(後参議院議長)の秘書として務めることになった訳です。
私は昭和42年藤田組(現フジタ)に入社し作業所事務、調達業務を担当していた一介の会社員でした。それが突然3年の約束で議員会館勤務を命じられました。
何故、私が秘書に選ばれたか未だに分かりませんが、恐らく議員の地元である広島出身であることと学校が同じ系列(修道)ということかもしれません。
いずれにせよ政治家の秘書業が始まりました。何せ全くの政治オンチで右も左も分かりません。毎日が勉強と来訪者の応対に明け暮れていました。その当時の事を家内は、毎日深夜に帰宅すると玄関で仁王立ちになり「もう辞める、明日から会社も辞める」と言って駄々をこねていたそうです。
半年、1年と経つうち秘書業も何とかこなせるようになり、地元や役所、各種団体やマスコミの方々との対応が出来るようになりました。こうして3年は瞬く間に過ぎ長い秘書生活となりました。
私が最初に「有尽無報」に接したのは、地元の支持者から藤田先生の色紙を頼まれ、院内の部屋に行き先生から色紙「有尽無報」を渡されたときです。「丹下君、政治家は国や地元の為に働き、予算や制度を作ることをするが、決して見返りを求めてはいけない。秘書の君も充分わきまえて仕事をするように」と教えられました。
藤田先生は、参議院自民党政審会長・国務大臣(総理府総務長官)参議院自民党国対委員長、幹事長、議員会長そして参議院議長と上り詰めて行かれますが、色紙に書かれるのは常に座右の銘「有尽無報」(人に尽くせども報を求めず)でした。
その当時、参議院広島地方区は全県1区で定員2名。自民党は藤田正明先生で、選挙地盤は磐石。先生は政治活動に専念しておられ、地元や中央省庁の方々には選挙に強く頼りになる先生で通っていました。
衆議院は中選挙区制で広島は1区、2区、3区と分かれ、自民党の議員が複数在籍しお互いの選挙地盤での手柄争いで大変でした。そのような状況でしたので複数の選挙区に絡む問題、同じ選挙区でもどちらかの議員に相談に行けば必ず相手方から反対を受ける。そのような問題や予算、制度などは多くが藤田先生に持ち込まれました。例えば現広島空港、本四架橋(しまなみ街道)、中国横断道路(広島浜田)、広島市新交通、大規模林道、土地改良事業、広大移転等々。地元の為に誠心誠意努力をして予算、制度の成果を得ましたが、藤田先生は見返りを求められませんでした。正に「有尽無報」を地で行ったわけです。
政治家秘書として、仕事は厳しく苦しいことの連続でしたが「有尽無報」は誠に有り難く職務のやりがいがありました。そのお陰で私は、いまだに中央省庁、広島県、各種団体、マスコミ、秘書会OBの方々と心置きなくお付き合いをさせて戴き、地元に帰れば、当時の仲間と昔話に花が咲き楽しい思い出となっています。
平成元年7月藤田先生の後継として長男の雄山氏(現広島県知事)の参議院選初当選を機に会社に復帰した次第です。
私も「有尽無報」を座右の銘として心に刻んでおります。■
(たんげとしみち・ディレクトフォース会員・元フジタ)
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2009/9/1 (No.60)
「レーダーの開発と第二次世界大戦」
木内 敏昭
電波によって遠方の物体を探知するレーダーの研究は昭和10年頃より国際情勢の緊迫を反映し、とりわけイギリス、ドイツにおいて兵器としての実用化に向けて進められていた。
日本においてもレーダーの発振源となるマグネトロン(磁電管)の研究は、早くから行われ、昭和2年に波長3cmで発振させることに成功している。海軍技術研究所の委託を受けた日本無線技術陣は世界に先駆けて昭和14年、波長10cmで安定的に発振出来るキャビティマグネトロン(空洞タイプ陽極)を開発した。
これを採用した実用化レーダーを製造するため当時技術力で圧倒的に優位にあったドイツ軍事技術を習得しようと日独伊三国同盟を頼って昭和16年、ドイツに海軍軍事技術調査団が派遣された。実戦に配備されたレーダーを見学する機会を得たものの、詳細な技術資料を持ち帰ることはなかった。いわんや両国で共同開発が提案されるような強固な軍事同盟ではなかった。
一方、米英ではレーダーの共同開発にその命運を賭けた。昭和15年英国は開発に成功した波長10cmの高出力のマグネトロンの技術を全て米国に公開し、先端レーダー開発の為の国家組織をマサチューセッツ工科大学(MIT)に設置した。最盛期での開発要員は4,000名を超えたと言われている。製造を受持ったのはレイセオン社であった。
太平洋戦争が進む中わが日本海軍は夜戦能力で米英を緒戦時には圧倒していた事から現用兵器の量産のみに力をいれ、マイクロ波レーダーの開発をおろそかにした。その背景には「敵艦を察知する為に自分で電波を発射する事は、恰も、闇夜に提灯に火をつけて賊を追い回すようなものだ」といった極めて非科学的考え方があった。
マグネトロン研究者は800名、レーダー研究者も一兵卒として動員された。
波長10cmのマグネトロンは海軍二号二型電波探信儀(レーダー)に使用されたが敵と互角に戦えるまでには終戦迄待たねばならなかった。ミッドウエー海戦、ソロモン沖海戦から日本の悲劇が始まる。■
(ディレクトフォース会員・元大倉商事/元日本無線)
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2009/8/16 (No.59)
「私と写真」
橋本 秀雄
もともと趣味として油絵を描くことに憧れていた。だが美的センスにはほど遠い家系ゆえ早々に諦め、せめて美しいもの、感動したものを表現する方法として写真に興味を持ったのがかれこれ10数年前。当時はまだ会社勤めで超多忙だった時期ゆえ、将来、現役を引退して時間が出来るようになったら始めてみようぐらいにしか考えていなかった。
何10年振りかで再会した友人でプロの写真家曰く「定年後に始めたのでは体力も気力もそして知力も思いのままになりませんよ」。「忙しい時にこそ時間を捻出して趣味としての写真の技を磨くべき」とのご託宣があり「写真塾」に入会した。とはいえ満足な作品も撮れず、多忙を言い訳にして毎月の例会への出席率は極めて低かった(ある種の出席拒否症)。あれから15年余り。今やメンバーの中では最古参、写真の腕前は毎月のDF同好会でご披露している程度で進歩の足取りは極めて遅く、かつ重く望み薄。何よりも作品にムラがあるのが素人たる所以か。
カメラは一眼レフ35mmフィルムカメラとデジカメを使い分けているが、昨今はデジカメの使用頻度が主なのはやはり使いやすさによる。645の中判カメラにも挑戦中だが、寄る年波のせいで持ち運びのシンドイことが難点。でも中判カメラはやはり画質がよく迫力満点、納得のいく作品が撮れる可能性が高いことから今年こそは一念発起、中判カメラを担いで生涯テーマ「アジアと日本の棚田」に本格挑戦してみたいと思う今日この頃であります。■
(ディレクトフォース会員・DF写真同好会会員・元日揮)
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2009/8/1 (No.58)
「碁は楽しい」
福田 誠
私の趣味のひとつが囲碁です。
碁は2人で対局するのが基本ですが1人でもテレビや本で楽しむことが出来る手軽なゲームです。
囲碁は2600年前に中国で生まれ、中国では古くから君子のたしなみである「琴棋書画」(音楽、囲碁、書道、絵画)の一つとされてきました。
現在世界の囲碁人口は4200万人とされ、特に中国、台湾、韓国での人気は高くプロ棋士の力も近年は日本を凌駕するほどです。
1局の碁の対戦中には「先手必勝」「急いては事を仕損じる」「二兎を追うものは一兎を得ず」「一難去ってまた一難」「一寸先は闇」「三十六計逃げるにしかず」「損して得とれ」「転んでもただでは起きぬ」「九仞の功をいっきに欠く」「死んだ子の年を数える」「窮鼠猫を噛む」「木を見て森を見ず」といった場面にしょっちゅう出くわすことになり、まさに人生のドラマの縮図そのものの感があります。
下手には滅法強いが上手にはからきし弱い人のことを「下手いびりの上へつらい」といいますが碁の世界だけのことにしたいものです。
「着眼大局、着手小局」という言葉は碁を打つ時の大切な心構えですが、私自身これまで会社生活における座右の銘としてきました。
碁は年齢、男女、力の差を問わず楽しめますし、急速に上達することは難しい反面ゴルフと違って、年をとっても衰えることがないまさに我々向けのゲームです。
私はこれからも「下手の横好き」「下手の考え休むに似たり」と揶揄されながらも碁を楽しんでいきたいと思っています。
私の当面の目標は普段頭の上がらない女房殿に碁を覚えさせ、「師」と呼ばせることですがなかなかその気になってくれません。
DFの囲碁同好会も毎月例会を開いていますので皆さん気楽にご参加下さい。■
(ディレクトフォース会員、元新日本製鉄)
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2009/7/16 (No.57)
「山歩きの楽しさ」
満岡 三佶
朝4時半に麓の宿を出て、関西で一番高い「八経ヶ岳」の頂にやっと着いた。11時間歩いたが、同行の仲間2人も元気だ。既に時計は16時(5月8日)を過ぎてはいたが、眺めは最高だ。南は今朝越えて来た「釈迦が岳」が遠く靄の中に浮かび、北は手前に「弥山(みせん)」が聳える。そこから山並みは大きく東に湾曲して凹凸の列をなし、「行者還岳(ぎょうじゃかえるだけ)」へと続く。ここは紀伊半島の背骨、熊野から吉野に至る「大峰山脈」の中央部で、全体の約1/3を4日かけての縦走である。奥駈道と言われるこの縦走路は世界遺産「熊野古道」の一つである。昨日は登山口前鬼の小仲坊に宿した。宿の主人は61代目、初代が大峰山の開祖役ノ小角(えんのおづぬ)と共に来て、修道者のための宿坊を開いて以来1300年続く家系だそうだ。五鬼助義之さんと言い、ご子息がやっと宿坊を継ぐ決意をしてくれた、と手放しの喜びようであった。さて今日は弥山小屋泊。明日はまた4時に起きて、行者還岳、七曜岳、大普賢岳を越えて和佐又山小屋へ下る。多雨で有名な処だが幸運にも雨の気配はない。明日は又山々が新しい姿を見せてくれるであろう。
胸はドキドキ、息はハーハー、山登りは何時だって苦しい。なのになぜ登るのか?
大峰山の例に見る如く山の持つ歴史を感ずるからか?自然壮大、気分爽快だからか?でも誰も本当は分かっていないまま登っている。私も同じである。だが山は危険だ。滑落、転倒は多いし、天候は急変し道迷いもある。時に単独行もするが、山に来るには計画と準備が必要である。会社時代に培ったあのPDCAサイクルを回し、危険予知をして山に入るが、それでもなお臨機応変の危機対応が求められる。お陰で頭はボケル暇がないと信じている。ギリシャの医学の祖ヒポクラテスは「歩くと頭は軽くなる」と言ったという。ギリシャは小さな都市国家として栄えたが、これは縦横に山列が走り僅かな平地と盆地しかないからで、山の国である。想像だが、85歳まで生きたと言われる彼はきっと多くの山を越え都市を渡り歩き、この事に気付いたのであろう。DF登山同好会の皆さんも歩き好き、頭は柔らかく実に若々しい。暫し彼等と、行く山の幅を広げ、「軽やかな頭」のために苦しくとも楽しく歩き続けると決めた。■
(ディレクトフォース会員、元三菱化学)
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2009/7/1 (No.56)
「地球温暖化の中期目標について」
佐藤 真樹
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麻生総理が地球温暖化の中期目標を発表した。これを達成するためには太陽光発電や次世代自動車、省エネ住宅の推進などの対策が必要であり、社会全体で62兆円の負担増となる。家計費としては次世代自動車への買い替えや断熱工事、太陽光パネルの設置など補助金を除いて5百万円以上が初期投資として必要であり、且つGDPの伸びが抑えられ、失業者が増大することになる。これにより、家庭当りの可処分所得は年間6万円から19万円減り、逆に光熱費は2万円から3万円増えるので、1所帯当り負担額は合計で8万円から22万円増えることになるという(総理は負担額合計を7.6万円と下限値で説明している)。大変な負担増だが大きな目標達成のためには払わねばならない負担であろう。
とはいえ、この負担が欧米諸国の家庭と比べて3倍も大きいとしたらそれは公平と言えるのだろうか?日本は2度に亘る石油ショックを乗り切るために71年以降強力な省エネ対策(CO2削減とほぼ同義)を講じてきた。京都議定書の基準となった1990年には日本のエネルギー効率はEUの2倍、米国の3倍を達成しており、同額のGDPを稼ぐのにCO2を欧米の2分の1から3分の1しか排出しないで済む世界最先端の低炭素社会に到達している。だから、これ以上の削減余地は極めて少なく、削減するには欧米に比しより大きな(今回案では約3倍)追加コストが掛かる。こうした事実を無視して、表面に現れる数字面を気にして、国民に不平等且つ大きな負担を強いることは為政者として避けるべきではなかろうか?更に京都議定書を達成するために日本は当初より1兆円前後の排出枠を国民の税金と企業のコストで排出枠余剰国から購入することが織り込まれている。EUは90年以降の東欧諸国の加盟により全体として大幅な余剰枠が生まれることが想定されており、排出権取引で年間2兆円規模の収入を得ることの出来る仕組みになっている。
他方、排出削減義務のない中国やインド、米国の排出増により、世界全体のCO2排出(2006年)は90年比30%、65億トンも増え、京都議定書は全く効果が出ていないという皮肉な結果になっている。これから年末にかけてポスト京都議定書をめぐる交渉は先進国と発展途上国との間で、各国の国益と思惑をめぐる激しい戦いとなることが想定される。そんな国益をめぐる果てしない争いの中で、国益やナショナリズムを超えてCO2を効果的に削減する賢い方法が、技術をベースとしたセクター別アプローチである。ひとつの事例として、太平洋を囲む7カ国で官民連携して2005年より活動しているAPP*には、排出義務のない中国、インド、韓国や米国も積極的に参加していることを再評価すべきだと思う。
ポスト京都の最終目標は世界レベルでのCO2排出を削減することである。だから、世界のCO2排出の半分以上を占める中国、インドなど主要排出国の排出削減を義務化しない限り、世界のCO2削減という所期の目的は全く達し得ない。自国の国民に他国と比べ不平等に重い負担を課す今回の日本の提案は、中国、インドなどが排出義務を負うことで初めてわれわれ国民の負担が報われると考える次第である。■
(ディレクトフォース会員、元新日本製鉄)
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2009/6/16 (No.55)
「日韓親善の思い出」
澤田 嘉夫
マイナースポーツとなった感のあるバスケットボールは、自分が情熱を傾けた競技であるだけに残念である。私が席を置いた東大バスケット部は、戦前全日本で2度制覇、昭和11年の伯林五輪は東大と延禧専門(現延世大)中心で、早、立、京大等の選手でチームが編成されるほどであった。従って当時の韓半島との交流で培われた友情が背景にあって、昭和50年代前半に日韓関係が緊張した折、五輪メンバーであった東大OB,延禧OB(内1名のち京大。戦後ソウル大教授)の諸先輩が若者の交流を企図し当時の須之部駐韓大使の助言も得て東大、ソウル大の定期戦を立ち上げることになった。
第1回を昭和56年1月ソウル、以後毎年東京と交互に開催との意図も、先立つものが乏しく隔年が数年おきとなり、このところ暫く途絶えているようだ。
私は世話役として昭和62年夏チームに帯同し訪韓した。試合の結果はさておくとして、その際柳井氏(後年の駐米大使)のお世話により現地で大使招宴を公邸で催していただき、両国関係者で懇親を深めることができた。当時大使公邸は学生にとってはデモ等の対象ではあっても立ち入ることなど考えられなかっただけに、またとない良い機会であった。また公邸玄関入り口の「国交に門はない」との書が印象深いものだった。元ゴルフ場跡のキャンパスは公園のようで、見学した図書館で前身時代の書籍も保存されていることを目のあたりにして、記憶に留めておきたいことであった。
日本の真の国際化は韓半島の人々と信頼しあう友人として付き合えるか否かが試金石とも言われているなかで、かようなスポーツを通じてささやかながら日韓親善の一役を果たしたことをいま懐かしく思い出している。
前掲先輩方の志が末永く継続されていくことを願っているところである。■
(ディレクトフォース会員・元興銀、寺田倉庫)
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2009/6/1 (No.54)
「自分史年表を作る」
曽山 高光
今年めでたく(?)古希を迎えます。古希を迎えたら記念旅行などイベントをする友人もいますが私は特には考えていませんでした。然し数年前に知人から薦められた本を思い出しました。それは「脳を活性化する 自分史年表」という題の本です。初版は2005年発行ですが、現在発売されている「1925−2015(昭和版)」を購入しました。「自分史」と世に言う格調ある書き物ではなく、古希を機に自分の歩いた時代を振り返りながら年表なら作れるのではないかと思い購入しました。この本は左頁に各年の社会的出来事(政治から流行歌、スポーツなど14項目)が書いてあり、右頁に自分がその年に何をしたかを書けるようになっている。本のオビに認知症研究所所長の「自分史年表はボケ予防の最高作業です」という推薦の言葉が載っていた。少々抵抗はあったが効果を期待して「自分の歩いた年表を作ろう」と始めることにした。
まず書くには手元に資料が必要だが私は日記なるものを書いたこともないので困った。スタートとして「誕生日」から始まり「学校への入学、卒業」「親族の慶弔」「会社での転勤履歴」くらいまでは簡単に書き込めた。あとの物的資料としては「アルバム」「撮影記録(スライドなど)」「会社時代の手帳」だろう。然し年史であるから少なくとも年・月がわからないと書き込めないのである。見たり読んだりしていると想い出にふけり時間は経つが、肝心の年代が出てこない。もう一つの問題は右頁に書き込んだ時左頁を読み出すと「長嶋が天覧試合でホームランを打ったのは大学に入った年だったのか。その年はどんな歌が流行っていたのだろう」と深入りしてしまう。このような状況だと今年中に70年史は完成しない。そこで今後友人に会ったり、何かの拍子に思いついた時その都度書き足していこうと決めた。これを始めたら自分自身を再発見できたり、脳が少々若返り出したかなと本人は感じつつ続けている今日この頃です。■
(ディレクトフォース会員・元キヤノン)
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2009/5/16 (No.53)
「50年ぶりの穂高岳」
木村 峰男
昨年、私の先輩が深田久弥の「日本の100名山」登頂達成のお礼として、穂高岳頂上の社にお参りされることになり、私はそのお伴をして50年ぶりに穂高に出かけた。
初秋の9月、上高地から横尾、涸沢、穂高岳山荘を経て2日目の午後に奥穂高山頂に立った。この日は快晴無風で頂上から南アルプス、北の後立山まで360度の絶景を楽しむことができた。その眺望は昔と変わらぬ素晴らしいものであったが、その道程の状況は50年前と様変わりしていた。原因は入山者数の多さである。当時は登山道で数人とすれ違う程度であったが、今回は平日にもかかわらず、どこへ行っても数10人以上の人々と出会った。そしてこの多数の入山者を遇するために、登山道も山小屋も見事に整備されていた。
3000メートルの高地にある穂高岳山荘も50年前は雨、露を凌ぐだけの小屋であったが、今では300人の収容能力を持ち、食事は8種類のおかずを揃え、夜具も敷布団、掛布団があり、ちょっとした旅館なみになっている。
このように整備されたおかげで私の年齢でも登れた訳で、それはありがたいと思う一方、大切な何かが無くなりつつあるように思われた。確かにゴミも減り清潔にはなっているが、全体に人の手が入り過ぎ、結果として山の素朴さが失われてきた様に感じられる。
山は美しい。人間はそれを楽しみたい。しかしこのまま人間の便宜のためだけに自然に手を入れ続けると、近い将来「美しい」とは言い難いほどに自然を破壊してしまう結果にならないか。人間も自然の中の1生物に過ぎない以上、岩の1つとも、小さな虫などとも真に共生できるような節度ある行為が求められる段階に来ているのではないかと感じた次第である。それは、あるいは入山者数の制限といった事態を意味するのかもしれないが。
私はDFの環境部会に参加し少しずつ環境のことを学んでいるが、学ぶほどに私の行為の一つひとつが環境問題にぶつかることが分かり戸惑いを感じている今日この頃である。■
(ディレクトフォース会員・元三井化学)
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2009/5/1 (No.52)
「蕎麦打ちと人の輪」
市古 紘一
少しスローライフを味わってみようとスタートした蕎麦打ちであるが、毎回出来栄えが異なり、なかなかスローな気持ちにはなれない。しかしいろいろな機会で蕎麦打ちを重ねることによって新たな知人を得ることができている。DFにおいても蕎麦打ち同好会の活動を通して多くの仲間に出会い、またDFボランティアの蕎麦打ちでは多くの高齢者に美味しい蕎麦を感謝されている。
昨年慶応大学の留学生に蕎麦打つ機会をもつことができた。日本文化を味わってもらいたいとのことから企画した集まりであるが留学生の関心は高く、出身国も中国、韓国、フィリッピン等アジア諸国のほか、英国、フランス、米国など広がっている。蕎麦は奈良時代の頃中国の雲南省あたりから日本に伝来したと言われているが、蕎麦を細く切って食べる蕎麦切りは江戸時代からである。また蕎麦切りを食べるのは日本だけであるが、フランスでは蕎麦クレープがポピュラーであり、また蕎麦がきのようにして食べる国は多い。
留学生は日本で蕎麦を食べたことはあるものの、蕎麦打ちを見たり、経験したことがある人はほとんどいない。伝統的な日本文化に対する好奇心は強く、蕎麦打ちを見るだけでなく、自ら打ってみたいと非常に積極的である。これに応えるため、予備の蕎麦粉を使い彼らにも交代で蕎麦打ちを経験してもらっている。ほうとうのような太い蕎麦でも、自らが打った蕎麦は美味しいようで皆笑顔で食べている。
彼らの笑顔を見ていると、少しスローな気分になってくる今日この頃である。■
(ディレクトフォース会員・元朝日生命)
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2009/4/16 (No.51)
「宮沢賢治に地球温暖化を見た」
野村 俊彦
宮沢賢治の短編「グスコーブドリの伝記」がある。青年ブドリがクーボー大博士を訪ね、「先生、気層の中に炭酸瓦斯が増えて来れば温かくなるのですか」との問いに、大博士の答えは「それはなるだろう。地球が出来てから今までの気温は、大抵空気中の炭酸瓦斯の量で決まっていた
‥‥ 」。その後、ブドリが人工的に火山を爆発させたことにより炭酸瓦斯が地球全体を包み、平均で5度位暖かになり、秋の作柄が普通に戻ったという童話で、昭和7年3月「児童文学」に発表された。
冷夏、旱魃で凶作・飢饉に苦しんだ岩手県に生まれ育った宮沢賢治は、童話作家というより大変優れた地質学者・農業指導者だ。加えて、約80年も前に地球温暖化に警鐘を鳴らした「環境学者」だったのではなかろうか。
今、地球温暖化の議論が盛んだ。原因は「人為的な温室効果ガスの増加による可能性が濃厚」のIPCCの見方が主流だが、一方、一部の学者は「人為的な‥」には否定的で、「気温の変化は自然変動の寄与が大きい」とし、『「地球温暖化」論に騙されるな』という本まで出版され、多くの異論、懐疑論もある。
私は、どの議論が正しいか分からないが、今、地球上で起こっている事象は確かに異常と思える事が多い。その原因を突き止める必要がある。日本は、都会ばかりでなく田舎に土・自然が無くなり、鼻水を袖で拭いていたガキの頃と比べ格段にセミ、とんぼ、カブトムシなどがいなくなった。今の生活は手塚治虫の未来マンガに近づきつつある。
この地球には、電気・ガス・水道なしで暮らしている人間はいっぱい居る。彼らが文明国へ仲間入りするのにそれほど時間は要らないだろう。文明化への過程で地球を犠牲にしてはならない。2050年までに、CO2を70%(1990年比)削減へのシナリオがあるが、果たして‥?
次の世代、子孫の人達にも健康で豊かな生活を望みたい。次の絶滅危機動物は人間だ。人間自らが地球を滅ぼすガン細胞になってはならない。今、宮沢賢治が生きていたら、でかいカミナリを落とすに違いない。■
(ディレクトフォース会員・元東京リース)
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2009/4/1 (No.50)
「脳力は落ちない」
福元 守
年を取ると長時間の読書ができなくなるとか、集中力が散漫になるのは体力衰弱のせいである。ところがこれを脳の老化と考えている人がいる。しかし、年齢が高くなっても脳自体はそれほど老化していないのです。
最近「年のせいで脳の老化が始まったのでは?」と身内の方からそれとなく呟かれる年頃であるが、決してそうでないことを申し述べて皆様のご賛同を得たい。例えば60才から80才の人に10週間、有酸素運動のエクササイズを受けてもらうと、受けていない人に比べて視聴覚認知テストの成績が上昇することが知られています。この視聴覚認知テストは大変な注意力を要する試験であり、この成績が上昇したということは集中力が高まったことを意味するわけです。
すなわち衰えるのは体であり、脳自体は鍛えればまだまだ十分に回復力と集中力があり、他人に囁かれるような脳の老化は決して生じていないのです。長時間の読書をするには同じ姿勢を長く維持しなければならない。そのために体力がなければ読書は難しい、これこそが「脳衰退」を錯覚する隠れた理由ではなでしょうか?
因みに、米国で500人の高齢者に日常生活での歩行速度を測定し、9年後に同じ人たちの健康状態を調査した結果がある。それによれば歩き方が遅かった人たちの77%が既に死亡し、中程度の速度の人たちは50%、歩行速度が速かった人たちは27%が死亡していました。遅い人ほど、つまずいて骨折したり、関節を痛めたりするリスクが高いと言われています。
足腰の筋力低下による老化の症状を「腎虚」という。この「腎虚」の程度が歩行速度にそのまま反映しているので、脳の活性化にも身体能力を維持し長生きするためにも足腰の鍛えが大事です。「足で稼げ」といわれた昔を思い出すこの頃です。■
(ディレクトフォース会員・元日本ロシュ)
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2009/3/16 (No.49)
「私とディレクトフォースとのかかわり」
藤田 公一
私の手元に6年前の日経新聞記事の切り抜きがあります。「企業の役員経験者をベンチャー企業や大学に紹介」「有力者らが再就職を支援する組織」と2段抜きの見出しが目に留まりました。当時私はゴルフ場に於いて脳内出血で倒れ、勤めていた国分(株)の役員も辞め自宅でリハビリをしている時でした。アサヒビールの方に、この記事の「ディレクトフォース」とはどんな組織か調べて欲しいと頼んだところ、発起人のひとりが同社の元社長・会長の瀬戸雄三さんであることが分かり、早速事情を説明し入会希望者として紹介をお願いしました。設立当初の港区赤坂の事務所に伺い、水野前代表にお会いしたところ、水野さん曰く、「某氏が藤田の体はもう良くなったのか聞いていたよ」と。某氏とは国分の先輩で水野さんの高校時代の親友、そうした関係もあり無事会員になりました。
入会後暫くして、世話人の石河正樹さんを通じて、厨房メーカーのタニコーから食品メーカーに顔の利く人を紹介してくれと話が来ているがどうだろうかと言われ、前事務局長の横井さんとタニコーに伺いました。業務用厨房だけでなく、食品メーカーにタンク・ドラム缶を販売しているので、是非手伝って欲しいというのでお引き受けし現在に至っています。
またジャパンジョブポスティングサービスというVBが支援を求めているので応援してくれということで、メンバーの篠原さんと一緒になって食品メーカーをいくつか紹介しました。
さらにDFメンバーの飯沼さんが米ぬか事業を立ち上げることになり、これまたB to Bで応援しました。今年の年賀状によると5年目にして黒字になったとのこと、営業をお手伝いし株主になっている者としては大変喜ばしいことです。
DFに入会したことにより、おかげさまで親しくさせて頂いている方が沢山できました。例えば、合田さんが音頭を取って、中央線会と称し小金井公園で花見、あるいは暑気払い、忘年会などと交友を広め、深める機会を作って頂いております。
ディレクトフォースは会員が受け身でなく、能動的にいろいろな企画に参画すれば本当に有意義な会だと実感しています。■
(ディレクトフォース会員・元国分)
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2009/3/1 (No.48)
「分を知る」
脇田 祐吉
会社人生活にピリオドを打ったのはもう3年前になるが、その折40年余の経験を顧みて、大切なことは「時として常識を乗り越える勇気」「緩急にあっては常識に立ち戻る冷静さ」そして「常に他人(ひと)を思い遣る心」かなと、生半可にも訳知り顔に認めたのを覚えているが、人として多少でも悟りをひらくにはまさしく“日暮れて道遠し”の心境は今も変わらない。
退職後は利害得失の世界を離れ、何事にも囚われない自分に正直な生き方は無いものかと模索する日が今日まで続いているが、或るとき書架に積んであった佐藤一斎著「言志四録」を久し振りに紐解いてみると、以前はやや難解なので放ってあったのだが、自分が年齢をとった為か、徐々にではあるがその意味するところを解きほぐすことが出来、しかも自分の生き方、処し方を示唆するごときその一言一句が、今更ではあるが自分の骨となり肉となる様な気がしている。
ご承知の通り佐藤一斎は江戸末期の大儒家であり、訳者の川上正光氏によると、その著書は一斎の後半生40年間の社会体験を通じた語録であり、後世の修養の糧として、又処世の心得として得がたい指導書と言われる。
その一節に「知分 然後知足」という言葉がある。「分を知り、然る後に足るを知る」と読むのだが、訳者の解説ではつまり「自分の身分を知れば、そう望外のことは望めず、また自分の天分を自覚すれば 現状で満足することを知る」という意味とのこと。これを私なりに俗っぽく解釈すれば、「自分の立場をよく理解できれば、結構世の中には満足(納得)出来ることが多くある筈だ」と満足・不満足は多分に自分の気持ちの持ちようで決まる筈とも、或いは「自分の分際をよくわきまえないから、不平不満が多いのだ」と戒めているとも言える。先ずは“己をよく見つめよ”と云うことに尽きるが、短いながらも、多くの示唆に富んだ言葉でもある。
ディレクトフォースの会員になって、私の何よりの収穫は、多種多様なしかも煌びやかなキャリアを誇る会員の皆さんとの新鮮な交流を通じて、自らに様々な角度から光を当ててみる様に、己の存在を浮き彫りに出来、改めて自分を客観的に見直すという機会を頂いた事だと思う。“自分を先ず知る”ことの大切さを胸に、佐藤一斎の世界に少しでも近づけるよう、私の修養の日々はこれからも続く。■
(ディレクトフォース会員・元三井物産)
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2009/2/16 (No.47)
「大菩薩峠(映画3作品) 」
山浦 幸雄
大菩薩峠は、中里介山の有名な長編時代小説である。おそらくは世界一の長編であろう。物語は、机龍之介という特異なキャラクターを持つ盲目の剣の達人が主人公である。
過去、この小説を3社が独自の視点で映画化している。
1.東映(1959年) 監督・内田吐夢 主演・片岡千恵蔵、2.大映(1960年) 監督・三隅研二 主演・市川雷蔵、3.東宝(1966年)
監督・岡本喜八 主演・仲代達也。
東映作品:原作をほぼ忠実に再現していると思う。内田吐夢 千恵蔵コンビによる秀作である。
大映作品:あだ討ち物語としてまとめている。雷蔵は机龍之介のイメージにピタリである。
東宝作品:机龍之介の狂気を表現することによりヴァイオレンス映画に仕上げている。
大岡昇平の解説書によれば、作者はこの小説を当初あだ討ち物語として書き始めた。しかし、幸徳秋水*事件の影響を強く受け仏教観やニヒリズムを投影させて方向転換をしたとしている。
忠臣蔵のように起承転結のはっきりした物語では映画化しても、ほぼ同じようなものに仕上がっていくのだろうが、これだけの長編小説になると、監督の切り口によってまったく別物に変化する。大岡昇平の解説を辿れば、東宝はニヒリズムを、大映はあだ討ちを、東映は仏教観をテーマにしたと言えるのではないだろうか。
私はこの3作品の中で、優れているのは東映作品だと思う。3部作であるが、それぞれが作品として完成度が高い。特に完結篇では主役の熱演もあり「無常観」が見事に表現されているからである。■
(ディレクトフォース会員・元東海銀行)
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2009/2/1 (No.46)
「オバさんパワー」
米永栄一郎
DFは強固な男性集団である。女性の会員比率は2〜3%なのではなかろうか。DFは実業の世界で功なり名を遂げた人々の集団であるから、この現状を見ても日本は今でも政治、経済分野での女性の登用は世界でも低位に属することが窺える。
さて、私は常勤の仕事を終えてから、DFに入会させていただいた他にも仕事を離れた世界に入っていった。それまで近所のスポーツクラブに属していたが現役の頃は時間が儘ならず、1人で時々マシーンをやる程度であった。自由な時間ができてスタヂオのレッスンを受けてみようと思い立ちいろいろな教室を経験したが、結局知る人ぞ知る「自彊術*」に落ち着き6年目に入っている。固定的なメンバーは14〜15人、この内男性は2人、週中の午後であり現役は無理にしても自分と同世代の暇な男性も居る筈だが、殆どは黙々とマシーンをやっている。ゴルフを80歳まで歩いて出来るようにと始めた体操であるが同好の士が増えないのは残念である。
2007年4月、港区は区制60周年記念事業としてチャレンジコミュニティ大学を立ち上げた。地域のリーダーを育成する目的で60歳以上の区民60人を募集した。期間は1年間、週に1度区内の大学で高齢者福祉、港区の行政、環境問題、一般経済社会問題、美術館巡り、福祉施設見学等を行い2008年3月に卒業した。60人の内女性44人、男性16人でこの中には既に色々な福祉活動をしている人がいたが、殆どは女性である。
私が幹事をしている会社仲間のゴルフ会があるが、メンバーの老齢化により参加者の減少が激しく、最近ご夫人の参加を促したところ数名が参加し活性化しつつある。夫人にグロスで追い越される者もいて争いが激化している。
洒落たレストランは昼間オバさん達に占拠され男性は小さくなっている例を見るまでもなく、オバさんパワーは大変なものと実感している。私はこれに対抗して頑張ろうという気はさらさらなく、これらのオバさんが日本を更に元気にしてくれるよう願うばかりである。■
(ディレクトフォース会員・元アサヒビール)
自彊術*(じきょう‐じゅつ)
東洋的な健康増進法の一。中国道家(どうか)の導引に現代の体操を加味したもので、気力と体力を養成する術。大正5年(1916)中井房五郎の創案。
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2009/1/16 (No.45)
「ワインと生きる」
七里 淳哲
さる11月初め、代官山のフレンチレストラン、アンドレ・パッションの舞台の上でボルドーワイン最高評議会のマッソーニ会長(Grand
Conseil du Vin de Bordeaux)は、サーヴェルで私の肩を叩き「貴公をボルドーワインのコマンドゥールに叙する」と宣言した。伝統のケープを羽織った私は”Je
le jure”と誓約し、メダルを首にかけていただいた。これまでの日本におけるボルドーワインの振興に尽くしたことが評価されたものと思われる。女優の川島なおみさんや作曲家の千住明さん、元日本相撲協会の時津風理事長(豊山)ご夫妻、デザイナーの麹谷宏さん、シャトーラグランジュの鈴田さんがたもご一緒に叙任された。ボルドーからこの日のためはるばる来日した15名の一行もそれぞれの地方の伝統の衣装を纏ってこの儀式を見守り、寿いでくれた。
この行事は同時に、コマンドリ−・ド・ボルドー東京の創立をボルドー本部が正式に認可する儀式でもあった。ボルドーワイン最高評議会は世界中70都市に支部であるコマンドリ−を有し、会員である5000人のコマンドゥールがこれを支えており、今後は世界のボルドーワイン愛好家との交流が始まる。
思えば30歳半ばでサントリーのマーケティング本部ワイン担当の課長になり、その後ワイン事業部長に就いてからの半生をワインとともに生きてきたことになる。ワインの仕事に就いた時期は、日本のワイン市場はまだまだ揺籃期。《金曜日はワインを買う日!》をはじめとして、ワイン市場を拡げるための様々なマーケティングをみんなで展開してきた。当時は年間国民一人当たりの消費量はわずか盃1杯程度であったが、やがてグラス一杯になり、今ではやっとボトル3本にまで育ってきた(フランスは約80本)。
今でもワインとのご縁は深く、Directforceワイン同好会あるいは大学での講義やセミナーなど、ワインの市場を拡げるべく私設伝道師になったつもりで微力を尽くしている。今度のコマンドゥールの叙任でいよいよワイン浸しになって、これからも《ワインと生きる!!》日々を送る。 ■
(ディレクトフォース会員・元サントリー)
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2009/1/1 (No.44)
「新年のご挨拶」
代表理事 田中健一
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新年あけましておめでとうございます。会員の皆様にはご家族ともども良きお年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年後半にはサブプライムローンに端を発した世界的な信用収縮、それに続く資産目減りに驚かされましたが、第二次世界大戦をはじめとする激動の世紀を生きてきた我々にとっては、またひとつ歴史的大事件を経験させてくれたと受け止めるべきかもしれません。
当会の会員数は昨年も約100人増加し、順調に拡大を続けておりますが、実働会員が500人を越え会員相互の親密度が希薄化してきた傾向は否めず、皆様の満足度向上には一層の努力が必要であることを感じております。昨年夏より少人数での意見交換会を重ね、昨年末までに140人以上の会員さんとじっくり懇談することができ、有益なご意見を沢山いただきました。まず出来ることから実行することにより会の充実発展につなげていき、皆様の今後の人生により意義のある会にしていきたいと思います。
昨年末には環境問題研究会がテーマを整理し直して環境部会として進化し、当会として社会にメッセージを発信していく大事な窓口となります。環境問題は実業を終えつつある我々が子孫のために取り組むべき使命のひとつであり、皆様の参加をお待ちいたします。
ベンチャー部会からは個人責任の投資組合であるエンジェルフォースが生まれました。机の上の勉強から一歩進め、実体験を試みようという動きで、当会の事業ではありませんが大過なく成功するよう期待しております。
技術部会でも小中学生を対象にした理科教育への支援の話が検討課題となり、当会の社会貢献の新しい手段として注目されます。
同好会は昨年、釣り、写真、スキューバー、コーラス、映画の5部が生まれ、コーラス部は総会でのご披露に次いで、千代田区高齢者センターで慰問発表を行うなどそれぞれ軌道に乗りはじめています。
当会はすばらしい方々の一大集団です。会員の皆さまがこの舞台をうまくご自身の自己実現の場に活かしていただきたい。すなわちやりたいこと、やるべきだと思われることを積極的にご提案願って仲間を集め、小グループの活動があちこちで始まることを願っています。
広報活動の充実をめざし、ホームページを年初から更新しました。会員の皆様にDFの活動情報をより的確にお知らせするとともに、外部に向かってDFのメッセージをより多く伝えていきます。今後もホームページについて皆様のご意見を歓迎します。
最後にいつものお願いですが、皆様の現役時代の人脈が錆びる前に専門家集団である当会を現場に宣伝していただき、DFが役に立ちそうな仕事をぜひ紹介してください。我々が本当にやりたい地方振興、中小企業支援、若者の教育などの社会貢献のためにも、会の財政の安定が前提となりますのでよろしくお願いします。
今年も元気で仲良くDFライフをお楽しみください。■
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