2008/12/16(No.43)
「日本語を教える」
西村 明男
私の住む函南町のとなりにある三島市は人口11万余、東レの主力工場や三嶋大社があり、あちこちで富士山の伏流水があふれる活気ある町です。私はこの町で外国人に日本語を教えているボランティアサークルに参加しています。このサークルは実働会員20人くらいですが、何かイベントがあると数10人のメンバーが集まります。
このイベントは毎月のようにあり、先月は外国人によるスピーチコンテストを開催しました。9人の人が発表し、中国からの花嫁さん、ペルーから出稼ぎの人、英語講師(カナダ・オーストラリア・イスラエル人)、日本人にベリーダンスを教えているウクライナ女性など楽しいスピーチ満載でした。私の生徒であるインド人モハメッド君も「大切な人」という題で、自分の生い立ちと「母・父・先生・神」への思いを語ってくれました。
外国人に接して思うことですが、彼らにとって日本はあまり住みよい国ではないという事です。厳しい入国規制、貧弱な受け入れ制度、異文化に対する理解もいまひとつ、こういう事を肌で感じながら生活している人も多いようです。「日本は単一民族」とバカな大臣が発言して問題になったりしますが、これでは経団連の「移民受け入れ提案」(10月13日毎日新聞)、「移民1000万人受け入れ構想」(5年前に民主党若手議員6人が提案、最近同じ趣旨を自民党「人材交流議連」80人が発表)など日本の少子化・人口減対策として掲げられている案の実現は難しいと考えられます。外国人への日本語教育も重要課題と思いますが、国はこの為にお金を使わず(文科省の予算は年4千万円とか)ボランティアまかせの現状です。
私はDFに比較的早い時期に参加し(会員NO42)ベンチャー・監査役チームの立ち上げ、大学での講義などかけがえのない経験をさせて頂きました。また貴重な友人を得ることが出来てよかったです。この後は地元で日本語を教える事に力を入れたいと思っています。■
(DF会員・元日立製作所)
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2008/12/01(No.42)
「森林ボランティアに思う」
金井 英夫
去る10月の9、10日にDFの有志の方々と草津の森林ボランティアに行ってまいりましたが、その時に草津森林管理署の指導員の方から、山を維持管理する立場の人の思いを聞かせてもらいましたので、その一端を紹介させて頂きます。
私自身は森林ボランティアに対する思いとして、森林の活性化の効果を期待するというよりも、好きな山に入って気持ちのいい汗を流す程度でしたので、その辺りをぶつけてみますと、「私達がボランティアの皆さんに期待することは、出来るだけ多くの人に森林の素晴らしさを体感してもらうということ、そしてその森林を維持し育てていく上で間伐など人の手を入れていく事の大切さを知って貰うことですが、もう一つ知って欲しいのは、森を育てていく過程で伐採される間伐材等をもっともっと資源として活用する事が、日本の森林、環境問題において大切であるという事です。木材は使っている間はCO2が固定されますが、山に放置すると直ぐに朽ち果ててC02を排出してしまうのです」という内容でした。
私も住友林業で社有林事業に携わったことがあるので、この話を聞いて日本の森林の大きなテーマである「森林の活性化と戦後の大量植林の活用、それがCO2吸収に大きく貢献する」という事に関して、現場を預かる人々がしっかりとした思いを持って業務に携わっておられることに共感を抱いた次第です。
私自身もボランティアに参加する意義として、自分だけの満足感でなく、そういった現場に携わって頑張っておられる人達の声を聞き、そしてその思いを他の人々に伝えることも大切だなと思いました。
今回リレーメッセージの機会を頂きましたので、国産材を使うことの大切さをお伝えしたいのと、DFではこれからも森林ボランティアを継続していくと思いますので、是非幅広い方々に参加していただき、森林の手入れの大切さを実感し、森林で汗を流す清々しさ、そして作業が完了した時の爽やかな達成感を味わって頂きたいと思います。■
(DF会員・元住友林業)
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2008/11/16(No.41)
「ニーハオ北京」
小林義男
この稿が皆様のお目に止まる頃にはDFの行事にも復帰しているものと思いますが、オリンピックの高揚感冷めやらぬ8月末に北京に参り、3ケ月の予定で滞在をしている最中に事務局より寄稿の要請を受けました。
現在私は当地で日本語指導のボランティアに従事しております。幼稚園から高校まで一貫のマンモス学校の中で、日本の高校留学予定の生徒への語学指導ですが、併せて日本の文化や慣習についての事前教育にも腐心しているところです。そういう私は、実は日本語教育の経験があるわけでなく、中国語も「ニーハオ」「シェーシェ」くらいしか分からないし、身寄りも一人としていない北京にどうして単身飛んで来たのか。知り合いに頼まれたとはいえ、徒手空拳というか軽挙妄動というか自分で半ば苦笑しながらの着任でしたが、まあやってみるとどうにか日本語教師も務まって、「板についているな」と妙に納得しております。日本出発前に『日本語教育法入門』とか『中国語の基礎』などの本を買い込んで、泥縄・付け焼刃の勉強をしてみたものの、そんなにすぐ身に着くはずはなし、特に中国語の方は現地で咄嗟に口に出るものではありません。それより日常の挨拶程度なら単純に「ニーハオ」と「シェーシェ」が何より便利で有効です。今回滞在中に少し中国語を勉強しようと内心期していたのですが、そのセンスがないことと授業では終日日本語しか使わないこともあって、一向に身につきません。その代りというか、歴史的な観光スポットの宝庫である北京の観光の方は堪能しております。来た当初、通された寄宿舎の部屋にはベッドと机しかなくて愕然としたものですが、その後電話やインターネットが繋がり、生活用電化品も揃って来ましたし、幸い気候・天候に恵まれ体調も良好で、しばしの北京ライフを送っているところです。■
(DF会員・元興人)
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2008/11/01(No.40)
「DFゴルフ同好会コンペにて優勝しての雑感」
下里 剛
9月に行われた、DFゴルフ同好会の第11回大会にて幸いにも優勝することが出来、大変嬉しく思っています。文字通り良きパートナー(合田さん、加納さん)に恵まれ、適度な緊張の中にもゆったりした気分でプレー出来たことが勝てた要因だと思います。
28歳から始めたゴルフは37年経過しました。この間各地のコースでプレーする機会がありましたが、特に印象に残っている筆頭は米国ニュージャージ州にあるバルタスロールCC(Baltusrol
Golf Club)です。
ここは、1980年のUSオープンでジャック・ニクラウスと青木功が4日間同じ組でまわり最後まで死闘をくりひろげたところです。小生がかって住んでいた隣町にあり友人の弁護士が偶々メンバーであったことから幾度となくプレーしましたが、戦略性に富んだ各ホール、四季折々に変わりゆく木々、住宅街に近いのに鹿やリスが走り回る、といった素晴らしいコースでした。一度バックテイからプレーしニクラウスと青木の勝負がついた18番で運よくバーデイがとれたことは今でも小生のゴルフ歴に残る嬉しい1コマです。その他米国西海岸のサイプレスポイントやペブルビーチなどでプレーをしたことがあります。
今までは力に頼るスイングでしたが、65歳となり、また妻とプレーするようになり、ゴルフは力ではないということがようやくわかりはじめたこの頃です。■
(DF会員・元三菱電機)
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2008/10/16(No.39)
「いのちの旅」
上原 利夫
アメリカの哲学者レオ・バスカーリアが書いた『葉っぱのフレディ―いのちの旅―』(みらい なな訳)という絵本がある。2000年にミュージカルになった。日野原重明企画・原案で初演以来、あらゆる年齢層の観客から感動と絶賛の拍手を浴びてきたという。それを五反田の「ゆうぽうとホール」で観た。
出演は20人ぐらいの子供たちと大人がひとり(宝田明)。子供たちは葉っぱとなり、その一人がフレディ。春に芽生えた葉っぱが、夏から秋を過ごし冬に散っていく。その間に、気候や景色のさまざまな変化があり、再び春が来る…という「いのちの旅」が描かれる。
同じ木から芽生えた葉っぱでも、陽あたりや風向きの違いで、大きさが異なり、色や形がちがう。いわば一葉一葉は個性をもち、土にかえるときも一緒でないが、同じように新しく生まれる葉っぱのこやしになる。フレディは最後まで木に残った葉っぱであったが、白い真綿のような雪の上に舞い降り、心地よく眠りについて土にかえる。こうしていのちは死への怖れを感じないで旅をつづける。
夏休みの平日マチネーだったから、観客の半数近くはお母さんに連れられてきた小学生であった。今の時代のように、宗教心が廃れているとき、このような形で、いのちを教えるミュージカルの存在は貴重だ。子供たちばかりでなく、大人にも感銘を与える。
わたしは思った。老人が若い者へ無形の何かを残さなければ、いのちの旅は続かない。ところが、誰かに面倒を見てもらうのが当然、と思い込んでいる老人がいるのは残念だ。本来は、老人が子供たちに働きかけられる場が必要なのだ。コミュニティと家庭であろう。物欲、金欲の虜にならなかった昔の日本にはそれがあった。
わたしは言いたい。老人よ立ち上がれ! いまの日本が必要としているのは、老人の知恵である。戦後の経済一辺倒から解き放たれた老人が、その知恵を孫の世代に伝えなくては。童話でも童謡でもミュージカルでもよい。「いのちの旅」をしよう。■
(DF会員・元住友商事・現カンサス社長)
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2008/10/01(No.38)
「横浜家庭裁判所の調停委員になって」
佐々木正延
今年(平成20年)4月1日付けで横浜家裁川崎支部調停委員になった。未だ半年の新米で、2ヶ月の研修と少ない実務経験しかないので偉そうなことは言えないが、いま考えていることを記述してみたい。
何故調停委員になったのかとよく聞かれる。「ここまで育ててもらって、何か社会にお返し出来ないか」と考えていたら学生時代の友人に何人か先達がいたので話を聞いて決めた。小論文と面接試験があった。小額ではあるが手当ても出る。
家事調停は裁判官と男女2人の調停委員の3人で行うが、通常、裁判官は入らず2人で当事者から話を聞いて進める。まとめるときや話し合いが暗礁に乗り上げたとき、あるいは今後の方向を決める重要なときに裁判官を入れて3人で評議する。
ご存知のように調停は夫婦間や相続の揉め事などをいきなり裁判に持ち込むのではなく、間に人を入れて話し合いで解決しようとするもので、法律に基づくより人生の経験や常識などから、譲り合いで解決の道を探ろうとするものである。
まず聞き上手になるよう話しやすい雰囲気を作り、公正、公平を心がけ、しかしポイントははずさずに聞くことが大事。
先日は離婚の話で、子の親権を双方が譲らずもめた。客観的に判断してAが親権をもった方がいいと考え、相方に面接交流などの条件を整えるから親権は譲って離婚に応じてはどうかと迫ったがダメ。裁判しても結局は和解になり、和解に応じなければ一方的に命令(判決)されることになるし、金と時間も無駄になると説明したが聞かない。
実の幼子を失う心の問題、相手に対する感情の問題、思い込みもあろう。気持ちの整理がつくまで時間をかけるしかないかと思った。
大局観を持ち、情意にかない実情に即した解決というが、これから出会うであろう「DV(家庭内暴力)が絡んだり、実力での子の奪い合いになったり、うつ病や精神疾患のケース、思い込みが強く人の意見を聞かないケース、自説を譲らず弁の立つうるさい弁護士が代理人としてついたり」と様々な厄介なケースがあることを考えると気が重い。
とはいえ世のためと気持ちは強く持ち、鋭く事態を見抜き、現実的な解決を心がけ、古い価値観や自分の経験や考えを押し付けていないか常に内省しながら、相談してよかったと思われるような調停を心がけたい。■
(DF会員・元全日空エンタプライズ)
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2008/09/16(No.37)
「定年後のベンチャー起業」
飯沼 一元
会員番号27番。ルーツは会津。NECで研究開発に係わり、MPEGという動画圧縮の基本特許を取得しました。デジタル放送やDVDに使われています。
定年前からベンチャーのネタを探していました。20年没頭しても飽きないテーマを探しました。そして、「米ぬか」に出会いました。「糠」は米偏に健康の康、つまり、健康の基ですが、白米は「粕(かす)」なのです。人は粕(白米)を食べているのです。米の栄養素の95%は米ぬかに含まれているので、米ぬかを食べれば、玄米食より効率よく健康を保つことが出来ます。
そこで、「米ぬかを食卓へ」というロマンを掲げ会社を設立しました。無謀にもこれまでの経験とは無縁の世界に飛び込んでしまったのです。まずは、東京農業大学の先生に相談し、米ぬかをおいしく食べるための技術開発に取り組みました。2年で米ぬか粉末食品「カーナの約束」を製品化するのに成功し、牛乳などに混ぜて飲むと便通が良くなると評判になりました。
しかし、問題は販売と経営でした。早速、DFに入会し助っ人を探すことにしました。このため、DF内にベンチャーグループを作ってもらい、初代の世話役を引き受けました。ベンチャーに興味を持つDFメンバーがかなりおいでになることが分かり、中には、進んでわが社の助っ人を買って出てくれる人も見つかりました。会社は火の車なので、世話役を次の方にバトンタッチし、経営に専念しています。思いがけない人との出会いがあるたびに感動を覚え、人の有難さをしみじみと味わっています。会合にはなかなか出られませんが、DFの活動が社会に根ざしてきているのを大変嬉しく思っています。■
(DF会員・元NEC・現ライステック)
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2008/09/01(No.36)
「私とディレクトフォース」
真木 郁夫
名古屋のある会でご一緒だった小林恒夫さんから「ディレクトフォース(DF)という面白い会があるけれど入らない?」とお誘いを受け、平成16年入会させて頂いた。
入会して、今までの役職の重責、組織の重圧から解放され、生き生きとして活動している諸先輩方に接し、ある種の感動さえ憶えた。
その反面、肩書き社会における地位の喪失による虚脱感みたいなものも感じた。元○○会社○○役と言うことが通用しにくくなり、自分の実力が試されることとなる。「元」が通じるのは、テレビドラマ「前の副将軍水戸光圀公なるぞ」の世界だけだ。
また最近、DFは精神衛生面でベストな「場」であることを意識するようになった。人間はまず肉体的にインプットとアウトプットのバランスが取れなければ健康維持は出来ない。精神面でも同様なことが言える。
インプット(見る・聞く等)とアウトプット(話す・書く等)は現役時代ほぼバランスしていた。ところがリタイア後は、インプットは多少減るが、アウトプットは激減する。つまりその「場」が少なくなるのだ。このバランスが崩れると電車の中で独り言を言ったり、必要以上の長話をしたり
‥‥ インプットすることさえ放棄してしまう。
そう言う意味でDFは、勉強会、業務支援、社会貢献、趣味の会と「場」には、こと欠かない。高邁な理想を揚げるDFに対して、やや目的意識が低いかもしれないが、私にとってDFは素晴らしい精神的な健康の「場」であり、今後もあり続けると思う。■
(DF会員・元住友金属鉱山)
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2008/08/16(No.35)
「定年退職半年が過ぎて」
柏崎 昇一
今、ぎっくり腰・50肩で週4日リハビリ中。虫歯2本治療中。後期高齢者医療制度は問題あると思うけれど今の私では文句を言えない。
北方兼三の水滸伝全19巻読破。男の生き様、夢・志などいつも考えさせられ、還暦を迎えた私のこれからの残りの人生の生き方に大いに参考になった。
過日、ファイナンシャルプランナー(FP)の研修会に「人生80年と備え」のテーマで120分講演する。夢実現のお手伝いが保険の役割、皆さんの志はそれを伝えることであると話し、これからの人生15年のカレンダーを作成してもらい、仕事と夢を皆で考えた。
「禅」の勉強会に誘われて学んでいる。月1回で1年かけて学ぶという。参加してわかったことは@漢字が読めないA高僧の言っていることは難解である。という事。
柏崎問う「どういう意味ですか?」師曰く「そんなこと知るか。自分で考えろ」う〜ん禅を学ぶと言うことはむずかしい。「他人みな我にあらず」‥‥そうなのだ。文化も、趣味もしかり。皆、価値観が、立場が違うのだから感じ方、理解など私と一緒なんてありえないのだ。誤解、曲解も当たり前と割り切る。「心」晴れのち晴れ。
6月28日、母の3回忌に墓前に報告。「生きることとは何かを一生懸命考えている」「生ききりたい」「いくつになっても私は貴女の子」等など。
夜中まで働き、学費を工面してくれたこと。小学校の家庭訪問で先生からいたずらっ子で困ると言われた夜、母は泣きながら「貴方は私の子、信じている。好きなように生きなさい。でも人の優しさと季節の変わり目のわかる人になってね」‥‥
今も忘れていません。
天国はあるのか?誰も見ていない。でも私はあると信じることにした。そこに母がいると思いたい。「千の風になって」を口ずさみ亡き母を想う。■
(DF会員・元アメリカンファミリー生命保険)
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2008/08/01(No.34)
「出会いに感謝!」
小林 恒夫
DF会員NO128。名古屋勤務時代からお世話になっている丸紅OB鶴岡さんからお勧めいただき、比較的早く入会したのでこの背番号。以来、ベンチャーキャピタルに勤務していたこともあってか、「ベンチャー部会」の世話役を仰せつかり、勉強会の企画や4,5人で構成する支援チームの一員になって数社のベンチャー企業支援に参画するなど結構色々な経験をさせていただきました。
昨年6月からは、縁あってベンチャーキャピタル勤務時代の投資先社長から頼まれて、無認可共済の「ペット保険」の社長を引き受けることとなり、3月からは「少額短期保険業者」として金融庁、財務局の監督下で再度保険業界に身を置くこととなりました。
時々顔を合わせる学校や会社の同窓からは「古希にもなって飽きずによくやるな!」と、同情に近い励まし(?)を頂戴することが多いのですが、仕事の厳しさは当然としても必要とされている間は、この環境にチャレンジして行こうと考えています。
1999年に安田生命(現明治安田生命)からベンチャーキャピタル安田企業投資に転身したのと、DF会員になったのが幸いしてか、ここ10年近くの間に現役時代にはなかった新たな皆さんとの交流の機会がこれ程増えて来るとは想像も出来ませんでした。
DFからイベント案内を受ける都度、手帳にその予定を入れていても、いつの間にか社業優先で参加不能になりご無沙汰することが多い昨今ですが、土曜日開催の「マージャン大会」だけは今後も絶対参加し、年間上位入賞を目指したいと思っています。■
(DF会員・元安田生命)
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2008/07/16(No.33)
「母の死に想う」
本田 安弘
母が他界した。行年99才。入院して5ヶ月間の闘病であった。入院1年前迄は、兄夫婦の支えを得ながらも、食事や身の回りのことをひとりでこなしていた。
人一倍健康にも留意して、早朝の体操や散歩に努めていた。日常の生活は慎ましく、それでいて子供や孫達のためには、思い切った出費もいとわなかった。
入院して最初の1ヶ月で、高齢と認知症も出ており、手の施しようがないとの医師の診断が出た。これまでの母の鍛錬からして、このままでは心残りになる。もう少し手を尽くせないかと、兄の計らいで転院した。
施設、人材共に整った病院で手厚い治療と看護を受け、認知症の様子は全くなくなり、安定した状態になった。内臓に腫瘍が広がり苦痛もあった筈だが、常に穏やかな表情であった。それでも検査の結果、手術は無理と診断され、4ヶ月に入った頃から、声をかければ目を開けるものの、殆んど眠り込んだ状態になり、医師は今月一杯がヤマだと話した。
回復は無理としても、持てる生命のエネルギーを完全燃焼させて欲しいと願った。そして、特別延命策を講じることもせず、点滴を続けるだけではあったが、更に1ヶ月生きた。
母は、介護や看病で子供達に殆んど負担をかけることもなく、常に自立していた。私は、これまでに、母からの多大な恩義を受けたが、何のお返しも出来ないままに終わった。
葬儀は母の遺志に従った。香奠は辞退、祭壇は明るい花で飾る。実際、大振りの赤い芍薬やラン、ユリなどで華やかであった。
明治生まれの母の生き方を振り返ってみて、その気丈さと前向きな姿勢に思いが至る。その死に方にも最後まで周囲に負担をかけず、すべての準備を整えて、自分の意思を貫いたと思う。
母の死をみて、これからは死に方を含めて生き方を考えておかなければならないと思った。どんな生き方をしたか、と共にどんな死に方をしたかが、人生の本当の幸せを決めるのではないだろうか。そんなことを考えさせられた。■
(DF会員・元大成建設)
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2008/07/01(No.32)
「もう一つの経歴」
四方 満
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筆者と我が家の次男 |
私の経歴は信越化学に11年、中村屋に30年余りとDF会員の中ではちょっと変わった履歴の持ち主ではないかと思っている。
実はこのほかにもう一つの経歴がある。中村屋に入社した翌年に全額借入で小さな賃貸アパートを建設し、7〜8年で黒字の目途をつけた。これが不動産に携わった最初の経験であった。以来投資用に不動産を購入して売却、また身内の依頼で約30年未解決であった物件に取組み、時間をかけて解決して関係者から信頼を得た。仕事上では取引先の店主からビル化計画の相談を受け、世代交代を含めて商売を軌道に乗せた。極めつけは都心の不良債権処理であった。4年の歳月をかけ取組んだ結果うまくソフトランディングさせることが出来た。公私に渉るが手がけた不動産関連の案件は2桁以上あり、いずれも“傷”にならずに解決することが出来た。
しかしこれらは過去の実績であり、現在は全く通用しないものになっている。すなわち以前は不動産を所有していることが担保価値であり企業価値を高めたが、現在は遊休土地を持つことは”悪“の評価となっている。
私は64歳で多摩大の社会人大学院に入学した。過去を捨て不動産を一から仕切り直して今後の時代対応に何らかの貢献が出来ればと思ったからだ。金融・リスク関連は無論のこと地域再生に関する授業には大いに興味を持った。修士論文の題目は「都内不動産価値の転換と創造」で、指導教授からは及第点をもらい無事卒業した。修士を取得した直後にDFからベンチャー支援の世話役の話があり、いささかでも貢献出来ればと思い引き受けたが、不動産関連のベンチャー企業を支援する機会が持てれば最高と考えている。■
(DF会員・元中村屋)
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2008/06/16(No.31)
「多趣味は無趣味?」
大久保 弘明
会社生活を離れ、昔の友人と会う機会も激減した昨今、それぞれがユニークな個性を持ち、人格・能力ともに卓越した手練者(てだれ)揃いの新しい友人たちと付き合えるのは有難い限りと、今更ながらデイレクトフォースに感謝している。故ケネデイ大統領の就任演説「国が何をしてくれるかではなく、国のために何が出来るか
‥‥ 云々」を思い起こすと、DFから受ける恩恵に比べて貢献の低さに内心忸怩たるものがあるが。
さて、小生が趣味として公言しているのは、(1)読書(2)映画(3)野菜作り(4)麻雀(5)ゴルフ(6)将棋(7)海外旅行(8)漢字といった所だが、財布との兼ね合いで、最近(5)と(7)が減少傾向にあるのはやむをえない。
引退後、素人離れした油絵を描く友人、俳句や短歌をひねるのに余念のない友人たちに比べると、わが趣味は如何にも娯楽中心の感が否めず、これをして「無趣味」と言う人もいるが、なにそれはそれ、お陰様で月に1度の麻雀同好会と海外旅行研究会の会合とそれに続く懇親会での談論風発と視野の広がり、また7月から発足する真木郁夫氏を中心とする「映画同好会」にも発起人の一人として引き込まれ、またまた楽しみが増えると大いに期待している次第。
読書と言えば、最近は特に江戸時代に凝りに凝って数十冊の本を読破・研究(?)、徳川幕府の苦労と非情を再認識している。それにしても、人間とはげに恐ろしきもの。
ミミズ、とかげ、蛙、蝶を友とし、カラス、毛虫、芋虫,アブラ虫を敵としつつ作物に丹精込める(3)の幸せを噛みしめる今日この頃である。■
(DF会員・元東レ)
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2008/06/01(No.30)
「今、心していること」
三村 公二
DFに入会して、やがて2年になる。DFの設立理念を初めて目にした時、次のような若かりし頃の出来事を二つ思い出した。
一つは、ある名門ゴルフ場で誰からともなく聞いた話、「スロープレイで一番困るゴルファーは、昔はシングルクラスだったが、年を取って腕が落ちているのにまったく気づこうとしない人」、前の組が非常に遅くて皆いらいらしている時だったので、なるほどと思って、隣のキャディに聞いてみたら、黙って笑ってうなずいていた。
もう一つは、私の高校時代の思い出、左翼系の先生が指導するクラブに所属し、「慈善活動」と称して、老人ホームや身体に障害ある人達への慰問活動をしていたことがある。この活動は、恵まれている自分達を安全な一歩上の立場に置いておいて、気の毒な人達に施しをするという姿勢が垣間見えて、どうしても素直にそれを受け入れられず、その後、その時の仲間達とはさようならをした。
DFはその名が示す通り、これまでの人生で培ってきた見識、経験、技術を社会的に役立てていきたいと考えている人達の集まりである。仲間に入れてもらって、これからその趣旨に沿った活動をしていこうという時の心構えとして、上述の昔の話を思い出したのである。
会社を辞めた今、仮令、過去にわずかな栄光があったとしても、それは今や何の値打ちもない古い勲章に過ぎない。もう一度、ゼロベースに立ち帰り、真に充実した社会貢献の道を謙虚に探し出し、それによる心の充実という新しい勲章を手に入れたいというのが私の目標であるが、今はまだ達成されていない。しかし、謙虚にこの気持ちを持ち続ければ、何時か、何処かで、必ずや、この心の勲章を手に入れることが出来ると信じている。■
(DF会員・元三菱レイヨン)
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2008/05/16(No.29)
「歴史を学んで精神的に若返る‥‥」
高井 俊成
有り余る暇ができ最近歴史の勉強に凝っています。テーマは現代の基盤をなす「近代史」、中でも「昭和史」が中心テーマで現在「日本陸軍史」「明治思想史」「日本仏教史」を勉強中です。還暦になり家系の流れの中で自分の人生を整理したい等の願望が突然湧き出たことが契機でした。近代史は奥が深く独学では至難ですので早稲田大学やカルチャー教室を活用していますが、講義による導きは効果抜群で最新学説の解説により勉強の意欲は高まりますし、参考書の推薦は有難いものです。ただ学んだ知識の体系化には道遠くまた歴史に意見を持てるのは何時の日なのか、が現実です。
政治だけではなく社会や思想などの裏面や繋がりを知ると実に面白くなります。知的好奇心が刺激されることで得られる感動は何事にも替え難く、我精神を若返らせてくれます。歴史上の人間は誰も生き生きしていて、例えば司馬遼の小説にはいない北里柴三郎、福沢諭吉、杉山茂丸などの足跡を見ると明治人の発想と行動のスケールは驚きです。今の政治家、事業家との違いは歴然、教育の中核に歴史教育をおくことが社会に貢献する人材の育成の鍵であると実感します。また歴史を勉強していると「あれっ!今と同じ。あの時と似てる!」と言う話が実に多く、正に「歴史に学べ」の感を強くします。そして歴史を学ぶことは真実を求める姿勢と相通じ、企業時代に比べ企業サイドに立つ意見より客観的な意識を持つようになった点も私の変化の一つです。このように「あれはそういうことだったのか」と度々新しい発見が生まれます。歴史はいろんなことを教えてくれます。
「また講釈が始まった」と家内からは敬遠されがちではありますが、こんな自己流のやり方で歴史を学ぶことで見る目が広くなったとか、人間のレベルが上がったとか勝手に錯覚したりして実に楽しい、自己満足に浸っているこの頃です。この世を去るまで歴史ロマンを追い続けたいと思っています。■
(DF会員・元長期信用銀行)
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2008/05/01(No.28)
「産業技術史のレビユー活動と社交ダンス ‥‥ 」
牧野 功
国立科学博物館といえばマヤ文明展、ダーウィン展とかでその活動がよく知られている。日本の高度成長を演出し技術立国に押し上げた産業技術の歴史を、“国”レベルで整理し後世に伝えようという活動もなされている。活動の“ミソ”は深く幅広い見識が盛り込まれるよう、各分野の現役を退いて間もない専門家を担当に選ぶことにあり、仕事人生の集大成と張り切る人も多いと聞く。小生にはアンモニア・尿素技術のテーマでお鉢が回ってきた。この分野は20世紀の人口増へ応え、化学工業での原点に位置づけられている。ハーバーのアンモニア合成発明は教科書にも載る歴史的出来事であるが、今回の作業で、国内でも多くの偉大な起業家が存在したことを再発見した。特に危険を顧みず国産機械をベースにアンモニア企業化に成功した森矗昶の偉業は、城山三郎の著書に取り上げられ迫力充分である。国の発展を思う気持ちと広い度量がその後の日本産業発展への貢献は計り知れず、報告書に纏められることを幸せに感じている次第である。
ところで個人的には会社生活に時間が取れなかった囲碁、ゴルフ、山歩き等、特に社交ダンスを楽しんでいる。大学時代にダンスに入れ込み思いがけず大学選手権で優勝して、同じ東大生のパートナーとNHKクイズ番組“それは私です”に出演したりした。今は趣味として地元中心に妻と楽しむ程度であるが、音楽に乗って程よく身体を動かすことから、年取ってからも楽しみながらの健康維持によいと感じている。
デイレクトフォースには兄の紹介で入会させてもらった。技術中心のモノカルチャー人間の小生であり、幅広いキャリアの方と接しその人柄に都度感嘆している。著名な方の講演とあわせ生活に新鮮な刺激を貰っており、入会できたことを有難く心から喜んでいる。■
(DF会員・元東洋エンジニアリング)
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2008/04/16(No.27)
「六十の手習い −書−」
石原 正之
経営の第一線を降りて監査役に就任した頃から少し時間ができたこともあって、自分の書く字を変えてみたい、もう少し上手く書いてみたいという欲求をずっと持っていました。昨年、ご縁があってある人から、書界の巨匠石川九楊先生をご紹介いただき、5年間は続けることという条件で弟子入りを許されました。
先生の直接の指導は月1回ですが、ほぼ毎日書いています。まだ始めて半年程ですので、今のところ「文字を正しく、整えて書く」という習字技法の域を出ていませんが、書についてそれなりに分かってくることがあります。@上質の奈良墨には心を鎮める香りがする、A白紙に対面して書の構成を考えることはあたかも囲碁の布石に通じている、B書くことによって、書かれたもの(語彙)と自分との間に書の美についての対話がある、C書はひとつの表現である、ということなどです。
学び方は、主に唐時代の名品を手本に臨書していますが、歴史的には中国の書の担い手の多くは、左遷され挫折した政治家であり、「書は文人の志の悲歌であった」(石川先生の本より)そうです。書の美には書き手の心の葛藤が内包されているのでしょうか。今の私にはまだそこまで読み取れませんが、少しでも書き手に近づく眼を養いたいと思っています。楷書の次は行書、草書、そして仮名文字まで一通り学び、自分の書を手の内に入れたい。そして気持ちのいい書を創作したい。
DFでは監査役部会の世話役をしていますが、幸い会員の皆様の積極的参加で年毎に内容が充実して来ているとの評価をいただいています。この部会が5年後どういう活動振りを見せているか、そして60から始めた自分の書の書き振りがどう変化しているか、その成長を見届けるのが楽しみです。■
(DF会員・元日本銀行/紀陽銀行、
現CSKホールディングス)
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2008/04/01(No.26)
「春が好き」
鈴木 裕子
文字通り猫の額のような庭に、梅が咲き、エニシダにかぐわしい黄色の花がつき、沈丁花があの特徴的な芳香を放つ。土の香りが匂いたつとまではいかないが、東京都心にも春がやってきたことがわかる。
最近、幼い頃の伊豆の実家の庭を思い出す。初春には、まず梅が膨らみ、水仙が黄色い花をつける。そして金盞花、パンジーがにぎやかに開き、門にからませたバラにはかわいい赤い花。やがて、母が丹精したおおぶりのピンクのバラが咲き、通りすがりの女子高生が見つめ続けていると、母が「1本お持ちなさい」とプレゼントしていた。庭の金木犀、くちなしが季節を匂いで知らせてくれた。
クルマに関わる仕事を、社員として、そして広告制作会社として続けてきた間に、すっかり忘れていた季節の匂い。夢中で働いていたからなのか、理由はわからない。
どうしたことか、急にこの頃、思い出してきた。思い出を頼りに、鉢花を購入した結果が、冒頭の猫の額の庭に咲く花々だ。
縁あって、ディレクトフォースの会員にしていただき、目を見張るような講師陣に惹かれて勉強会に通って1年ちょっと。環境部会の勉強会にも時々参加させていただいている。さらに錚々たるキャリアを誇る女性が集うディレクトフォース女性部会の世話人なども仰せつかり、四苦八苦しているうちに、豊かな匂いを思い出したのかもしれない。
そんな折、日本の食や農業を見つめ直していくという企画に出会った。もう一つ山を越えれば、ライフワークを見つけられそうな気がしている。■
(DF会員・現ハイプランニング社長)
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2008/03/16(No.25)
「ねずみ考」(今更ですが … )
唐沢 憲正
気儘に暮らしていると万事に鈍い。12月初め、年賀状印刷を頼む段になって08年の干支が「子」であることに気がついた。そうか「亥」の次は「子」に戻るのだと。実は小生「丙子」の生まれ、働き盛なら‘年男’と胸を張るところだが古希も過ぎてはそれを憚る。差しずめ‘年爺’か?
自分の干支については口外するのを避けてきた。鼠の「汚い、小心、狡賢い」と云ったマイナス・イメージが自分に乗り移っている気がしていたからである。このことを愚妻に話したら「アナタがネズミに移したのでは!」とからかわれた。
ところが国立民族学博物館の会員誌、月刊「みんぱく」1月号の特集‘ネズミ’を読んで心を開く勇気が湧いた。と申すのは人間とネズミの関係では古今東西を問わず医・食・文化の各分野で人間の方がネズミから色々と恩恵を受けていることを改めて知り、その干支を戴いている者こそネズミに感謝し自らに誇りを持つべきであると思うに至ったからである。畑や台所では悪さをする害獣(害チュー)だが、他の居場所では人類にとって正に益チューである。ことの序に広辞苑と易の本、日米の百科、引用語句、諺の各辞典のネズミの項を調べ上げ、その感を益々強くした。では研究成果?の一端を公開しよう。
まず、鼠とは「寝盗み」が訛ったもの。広辞苑で「ねずみ」を引くと「鼠穴」以下38もの用語例が出ている。大国主命、雪舟などのよく知られた昔話・伝説に登場する鼠は皆幸福の使者。英語では、いとおしく小さな鼠が
mouse、憎き大きな鼠が rat だが、その隠喩(比喩)表現も多い (mickey mouse、mousetrap、Rats!
etc.) 辞書でお確かめ願いたい。@世界中で種数約1,700 に及ぶ鼠のDNA分析が民族の生い立ち・移動の解明に役立っていること
A人様の医療の進歩の為に命を捧げている生体実験用モルモット。B山鼠の肉は淡白で美味しく、南米アンデス、ラオス、ヴェトナム等の地域では食用として飼育され貴重な蛋白源。C1928年アメリカ生まれ
Mickey Mouse の何という愛らしさ!Dマウスなしでパソコンの操作が出来ますか!(アメリカ人E. C. Engelbart
の発明で1970年特許。初期のモデルではコードがお尻に付いていた。JACES 田中満佐人氏の調べ)E文学では John Steinbeck
の Of Mice and Men(2度映画化された) Agatha Christie の The Mousetrap(その芝居は40年余のロングラン)アメリカのアニメ
Tom and Jerry ではネズミの Jerry がいつもネコの Tom に勝つ!
ところで、猫は十二支から外され、鼠が堂々1番目を占めているのは何故かご存知ですか?紙幅の関係でその訳は一席設けて下さる方だけにお教えしたい。子年生まれはやはり狡賢い!■
(DF会員・元兼松)
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2008/03/01(No.24)
「謝罪」を評論して
三木 義昌
最近、新聞・テレビで毎日のように企業の責任者が3・4人揃って頭を下げる場面を見かける。もちろん不祥事の内容にもよるが、謝罪の答弁・態度を見ていて、あれでは叩かれるぞとか、反って事を大きくしているなどと批評、評論している。
実は6年前、私は何人かの真ん中で頭を下げた経験がある。急に生産本部長を命じられたあと一と月ぐらいして、工場長に「実は地下水の汚染の問題がありまして・・・」と報告され、全くの素人の私が総責任者として記者会見・地元説明会・議会説明等をやることになった。
そこで、私は記者・議員の後ろには生活者・地元の人がいる、その人達に素人の誠意で素人に分かって貰えるように心からお詫びしかつ理解して頂こう。専門家が説明すればするほど専門家の陥りやすい弊害に落ちると思い、私一人で全ての説明・答弁をする事にした。過去の新聞記事・水に関する法律の経緯・米国の事情等分厚い資料で大学の受験勉強以来となる猛勉強をして、記者も素人なのだから素人目線で理解して貰おうと考えた。
さらに会見での態度は絶対に腕組みしたり、足を組んだり、貧乏ゆすりしたり、ハンカチで汗を拭ったりしない。カメラマンはそれを狙っていると教わり、終始、地元の住民に会っている態度・発言に徹した。
お陰で無事に全てを乗り越えることができ、これを機会に工場の全社員と意思疎通よく仕事が出来るようになり、今でも工場の諸君のゴルフ・飲み会に声が掛かる。
昨今の状況を考えると、DFの環境問題研究会も「企業の環境トラブル対策コンサル」を研究テ―マのひとつにしてはと思う。私自身は実際に経験するのはもう二度といやですが。
今はテレビの前で、「あれでは謝っている相手は創業者に対してだけ」とか、「あの態度と答弁は誠意があり、これ以上に事は大きくならないだろう」とか女房に解説している毎日です。■
(DF会員・ディレクトフォース会員・元大正製薬)
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2008/02/16(No.23)
「林檎の木」
戸成 了晟
秋冷の11月中旬に、家内と4輪駆動で信州安曇野に出かける。オーナーになっている1本の林檎の木の収穫である。北アルプスの翠眉を仰ぎ、梓川の流れに広がる安曇野の林檎園に立つ私の名札のついた木には、200個ほどの富士(品種)がたわわに実っている。たっぷりと蜜の入った見事な富士である。世話をする林檎園のオーナーは高校の同級生であり、多くの高校時代の旧友の名札が木々に付いている。
転勤族の父に従い、転校を重ねたが、高校から信州松本となり、その後、山好きの父が松本に終の棲家を構えて以来、松本が私の故郷となった。両親は他界し、その家も処分し、墓も横浜へ移した今はこの林檎の収穫が故郷との接点となっている。林檎園のオーナーの配慮で収穫の日時を決めるので、林檎園はさながら同窓会場のようになる。収穫した林檎の内、約150個はその場で、林檎を詠んだ俳句を添えたメッセージと共に箱詰めし、おすそ分けとして、親戚や友人達に宅配便で発送する。後は、親友である同級生の穂高の山荘に3組の夫婦が宿泊し、温泉に入り、近くのフレンチ・レストランで、持参した極上のワインを飲みながら、ワイン談義に花が咲く。皆、私が世話人をするワイン会のメンバーでもある。また、同級生の消息の話にも飽きることがない。友人の一人は、結社・師系は異なるが俳句を嗜むので、一緒に吟行に出かける。時間があればゴルフを競うこともある。故郷で濃密な交遊をもち、至福の時を過ごすことが出来るのは、1本の林檎の木のお陰であり、木霊に心から感謝する。林檎を詠んだ俳句を1句。
「林檎もぎ北アルプスは枝の先」■
(DF会員・元クラリオン)
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2008/02/01(No.22)
「企業人から地域人へ」
本郷 公基
企業人を辞めて7年が過ぎた。退職後は少し地域社会に貢献しようと考えていたが、この様に、ボランティアの地域活動に忙しい毎日を過ごすことになるとは思いもしなかった。
引退の翌年、自治会長となり、熟年世代の会と言う組織を立ち上げた。親睦と退職者の活性化のため、歴史散策・混声合唱団・防犯パトロール・お助けよろずや隊等々を今も続けている。この自治会は30年に亘り、鎌倉広町緑地保全運動に中心的役割を果たしてきたが、この保全運動史を日本の環境保全運動の「バイブル」にしたいと考え、編纂委員の一人として毎月喧喧諤諤と編集作業を続けている。以来地域に多くの知人友人が出来た。
上記とは別に,私が今一番気を入れているのは、鎌倉市生涯学習推進委員の仕事である。鎌倉市は市の職員が企画・運営していた公民館の講座・イベント事業を、平成13年に市民ボランティア団体「生涯学習推進委員会」に業務委託した。このとき市の呼びかけに応じた60余名の市民ボランティアは、嬉々として自分の得意な分野の講座やイベントを市職員に代わって企画・運営している。この思い切った「官から民へ」の移管により、鎌倉の講座・イベントの内容は大いに改善され、市の経費も年間1億円近く節減された。この鎌倉の成功事例を参考にするため、毎年日本各地の市町村から多くの視察団が見学に来る。
私も推進委員会の会長として組織を統括すると共に、自分の企画した講座・イベントの運営を、自ら楽しみながら担当している。中でも毎年DFの賢人・識者を講師に迎え、鎌倉市民に社会,経済,国際問題等について「考えるヒント」を提供している「市民大学・土曜講座」の企画・運営は、私の最大の生甲斐である。特に講師を引き受けて頂いた30名近い会員の方々と、講座終了後も親しくさせて頂けることが無上の喜びである。■
(DF会員・元商船三井)
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2008/01/16 (No.21)
「起・承・転・結」
牧野 守
DFは私にとって、摩訶不思議にして且つ有り難い組織です。引退後、とかく単調になりがちな生活に心地よいリズムを刻んでくれています。
ひょんなご縁から、ある会社のコンサルを引き受けたのが3年前。その時ご指導頂いた水野代表と横井事務局長(共に当時)の誠に的確なご意見と、器の大きなお人柄にひきこまれ、お仲間に加えていただきました。
その当時、私は生涯の趣味と決めた木版画の勉強を始めて間もなくの頃でした。65歳から85歳までの20年計画。5年ずつ「起・承・転・結」の期間と考えました。「起」は基本的技法の勉強。「承」はそれを受け自分に合った表現手法の模索。「転」ではすべての可能性への挑戦。そして「結」で自分なりに目一杯の作品を創るという漠然とした性格付けでしたが。
ただ、机に向かって版画作りに没頭してみると、外部との接点も少なくなり、気持ちの中で「明るさ」や「楽しさ」が次第に減っていく危惧を感じはじめていたところでした。
そんな心配をDFが見事に吹き飛ばしてくれました。各種勉強会での最先端の知識の収得、美術や蕎麦好きの会での素敵な同好の方々との楽しくも刺激に満ちた語らいの時間。引退後に、こんな充実した日々が過ごせることの幸せをかみしめています。同時に、今私が応援している若い人達の会社への助言にも大いに役立っています。
ところで版画の方、去年で満5年が経ち「起」から「承」への転換時期になりました。丁度、小学校を卒業したあたりでしょうか。同時に木版画の創作が、意外にも体力勝負であることも実感させられています。85歳になっても、大き目の作品を作ることが出来るのか‥‥。ちょっと予定を変更して、これからの「承」「転」「結」はそれぞれ3年程に短縮しなければいけないのか、目下思案中であります。■
(ディレクトフォース会員・ 元フジタ・藤和不動産)
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2008/01/01 (No.20)
「年頭ご挨拶」
田中 健一
会員の皆様、新年おめでとうございます。ご家族と良いお正月をお迎えのこととお慶び申し上げます。以前よりは自由にご自身のペースで年間行動計画を立てやすいお立場と思いますが、どんな一年の計になりましたでしょうか。DIRECTFORCEでの活動の比重がより高まっていることを願っています。
既にご案内しましたように今年から同好会が増え全部で16となります。現在約200名の方が同好会に加入されていますが更に多くの方が参加できるよう今後も分野を拡げたいと考えます。新しい同好会を立ち上げようという方はぜひご連絡ください。同好会以前のイベントでもいいかと思います。また既存の同好会の幹事さんには活動会場や指導者の都合を工夫願い、メンバーの勧誘に力をいれていただくようお願いします。
多分今月中にはじめての支部が名古屋に生まれる予定です。今、名古屋在住の会員さんが中心となり、DFにふさわしい会員候補を募って頂いています。20名ぐらいで旗上げとなりましょうが、活動の充実と財政の基盤確立が初年度の試金石となります。うまくいけば関西や九州にも支部展開が視野に入ってくるでしょう。当会の社会貢献として地方経済活性化に知恵を出すことは大事なテーマであり、その足がかりの意味でも名古屋支部の成功を期待しています。
現在の当会の活動自体は順調ですが伸び率の点では満足できません。会員のお力を借りる機会を増やさねば手持ち無沙汰の会員が解消できません。事務局ががんばるのは当然として会員の皆様から寄せられる情報や提案がきわめて重要で、これはDFでとりあげ可能と思われる案件はなんなりと事務局にご連絡ください。うまくいった場合は参加いただいた会員さんにはそれなりの還元をしていることはご承知のとおりです。
経済基盤の安定が会の活動力の源泉であり、会員さんから自ら案件を主導していただき、DFの総合力を活用して大きな仕事をするのだというほどの積極性を発揮していただきたいと思います。今年の最も大切な目標は会員の満足度の向上と考えて努力いたします。
本年が皆様にとって良き一年となりますようお祈りします。■
(中間法人ディレクトフォース代表理事)
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