( 19/05/29 )
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一般社団法人ディレクトフォースの3月勉強会は、3月8日学士会館で会員約130人が参加して開催、「雨が降れば傘をさす」というテーマで、ディレクトフォース会員の中博氏に松下電器産業(現パナソニック)創業者松下幸之助についてお話をいただきました。
中博氏(=写真)は松下電器産業の経営企画室を経て、松下幸之助プロジェクト、神戸博松下館、世界を考える京都座会など数々のプロジェクトを運営、プロデュースされ、現在は若手経営者を育成する「中塾」を主宰、コンサルタントとして活躍されておられます。松下幸之助の傍らにあって松下経営哲学の薫陶を受けるとともに、その人間性の魅力に強く共感された方です。
お話の内容として、松下幸之助は幼少のときから極めて病弱なうえ学歴がないという弱点をもった人であったにもかかわらず、そのマイナスを逆にプラスとして世界のパナソニックを築き上げていく。その成功の理由は「あらゆるものに限界はない」、「人を信じる、任せる」ことにあり、それは誰もが学ぶことが出来るし、応用出来るものだと説かれました。講演の要旨は次のとおりです。
本日の講演のテーマ「雨が降れば傘をさす」や「経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」「自分は生きた芝居の主人公」、「金は儲けるより使う方が難しい」など、松下さんは言葉作りの名人である。2番目の言葉は社員に向けたものだが、若い社員にも分かる言葉で語っている。得意先に対しても「お客様はナショナル製品の嫁ぎ先」などと分かり易く言いながら、そこに深いサービス精神を物語っている。自分のこと、商売のこと、社員のことすべてを軽句で話しているが、松下さんの作った言葉をじっくり考えるだけで松下電器の経営や松下幸之助の哲学が分かる。
松下さんの経営哲学の源泉は幼少時の悲惨さにある。富裕な家に生まれながら4歳の時に父親が相場に失敗して自己破産、9歳で丁稚奉公に出る。11歳で父親を亡くし、自分も17歳のとき肺カタルを患い、余命20歳までと医者にいわれていた。18歳では母親をなくし、20歳代で家族の係累がすべてなくなる。これらのことが松下さんの哲学の原点となる。
9歳で丁稚奉公したときから10歳ぐらいまで、つらくて毎晩布団の中で泣き尽していたという。この悲しみの果てになにかがある。V・Eフランクルがアウシュビッツに収容されていたときのことを「夜と霧」に記しているように、収容されていてもユーモアに長け、ニコニコし、楽観に徹した人がいた。こういう人たちは本当に悲しみ尽くした果てに喜びを持つようになる。フランクル自身も悲しみ尽くしたのち太陽を見たときに感謝の念に満ち溢れ、そこで運命に気づく。結果的にこのような人たちが生きてアウシュビッツを出ることになる。
松下さんの心理構造はまさにここにあり、楽観の哲学はどん底で悲しみ尽くしたことによる。さらに興味深いのは逆転の発想。この原点は市電に轢かれかけたのに「本当に俺は運が良い」と思い切ったことであり、快進撃はこの思いを持ったことから始まる。自分を轢き殺しそうになった電気で走る市電を見て、これからはますます電気の時代がくると確信する。これが松下電器の始まりにもなる。
我々はつらさ、悲しみのなかで「自分は運が良い」と思い切れるか。松下さんはわずか9歳のとき、尋常小学校に行けないことを自問自答で「甘ったれるな。相手と身分が違う」と悟る。そのとき勇気付けたのは右手にあった5銭白銅貨で、自分を守ってくれるものがある限りは「俺は生きていこう」と思った。そうなると弱いからだも無学問も逆のフォローウィンドーになる。この気持ちがあるからこそ危機をどう乗り切るか、松下幸之助の経営流儀がある。
1929年の大不況のとき。ナショナル電器が世に出て社員も1300人となり、まさにこれからという時期であったが、当時の井植工場長が社員の半分は首を切らざるを得ないと進言した。このとき松下さんは考え抜いた末、一人も首は切らないと決断する。但し条件として工員は半日就業、半日休業、店員は休みなしで売りに回ることとした。これで6ヶ月頑張るという。この期限は自分の全資産を計算したうえで6ヶ月は耐えうる、値引き販売するより社員の給料を払った方が得と考え、そろばんをきっちり押さえた上での判断であった。首を切られると考えていた社員は狂喜百倍、猛烈に働いた結果、2ヶ月で在庫を一掃。他社の日立、東芝は在庫一掃に8ヶ月掛かった。この間の6ヶ月がナショナルブランド東京進出のきっかけとなる。松下電器には分析競争型戦略思考はなく未来創造型戦略経営であり、原点はここにある。
昭和39年7月、オリンピック開催を3ヵ月後の10月に控えて世の中に高揚感があったとき、販売卸会社170社集める会合を熱海で開いた。
その背景は前年ごろから高度成長で、オリンピック景気も加わり、卸店がカラーテレビをはじめ電気製品を販売店に押し込み販売したため市中在庫が膨れ上がる。この事実を松下さんが知るところとなり開いたもの。松下さんは話を徹底的に聞くために参加者をゆり動かす。強烈な松下電器批判を2日間、18時間立ち詰めで聞いた。3日目の朝になって、あなた方の話を聞くとあなた方の言うとおりだと思う。ナショナルランプを作ったとき応援をしてくれた皆さんに今松下電器が迷惑を掛けている。松下電器が悪い、松下幸之助が悪いと詫びた。これで雰囲気は一転し、それまでは説得できず懸案となっていた「新販売会社制度」という厳しい仕組みを170社の全員が受け入れ、一緒に頑張りましょうと立ち上がる奇跡が起こった。まさにドラマを見る思いである。
このように松下さんは生きた芝居の主人公を演じることができる人だが、丁稚奉公の幼少の頃から読んでいた本で、本当の正義を子供ながら身に付け、その正義を自分が主人公でやるというのを94歳まで続けた。(写真クリック拡大)
工場内に不正者がいると聞かされ、悩むに悩んだ末に「日本は天皇陛下が治める、そこには泥棒は何人もいる、強盗もいる、殺人犯までいる。幸之助ごとき小さな工場に泥棒の1人や2人いるのは名誉ではないか」と考えたら急に心が晴れて、大胆に人を好きになれるようになったという。その結果、「世の中に無用なものはない、天は必ず一物を与えている。どんな社員でもいいものを持っているからそれを使ってやらないといけない」と言うようになった。
「この人はこんなことが出来ると期待するからできない。この人にはどこか良いところがあるかもしれないと考えた使い方をするのが経営者の力量である」と松下さんはいう。
このような考え方があるから、松下電器には全くの素人でも任せる凄さがある。素人であることが一物であると考える。松下さんはあらゆる状況の中でいま何が最高かをつかみうる人である。
新聞記者から質問を受け、松下電器成功の最大の理由についてご本人は「病弱の徳、無学歴の得」と答えている。学問がないから常識が身についていない自分にとってあらゆるものに限界がない、無限にものが見えるという。
30数歳のときに世界初となる事業部制を発表したが、自分が病弱であるから人に任せるしかない、人を信じるしかないことによる。電球が売れて各所に営業所を設けていったときに新入社員を北陸の営業所長に任命した。当の新入社員は任され、信じられたことに応えるため懸命に頑張る。「任せて、任せず」とよく言われるが、松下さんの「任せず」は、人脈、地縁、バックヤードを持たない彼を任命したのは自分だから自分が責任を持つ。いざとなったら自分が助けるという意味である。
経営の原点は「あるく、みる、きく」ことにあると、松下さんはこれを徹底していた。
塩野七生はルネッサンスとは、見たい、知りたい、分かりたいという欲望の爆発であるといっているが、松下さんは松下電器を舞台としてルネッサンスを演じた人であり、真似の出来ない経営をした人である。松下さんの聞くことのすさまじさこそパナソニックがパナソニックになった原点と思われる。
松下さんは、私は学がありませんからと、考え方が無限大であり、迷信や規制概念にとらわれない。大阪の福島から門真に本社を移転するとき、鬼門の土地と反対された。反対する人にも一理があるとして、この人たちを傷つけず、納得させるために「日本列島すべて東北を向いている。鬼門を気にしていたら日本で仕事は出来ない」、「東京に進出するのに一番良い門口」と説明して門真に本社を決めた。実際に松下電器はそこから発展することになる。
ナショナルというブランドを決めるときの話。松下さんは、インターナショナルとは共産党統一戦線の歌で、インターナショナルとは「国際的な、国際連帯の」を意味する。ナショナルとは、「国中の」とか「国民の」という意味であると聞いて「良いな。それでいこう」とブランド名をナショナルと決めた。それが世界に冠たるブランドとなった。当時共産主義の言葉は忌み嫌われていた。それを堂々と使う。後年、松下さんは学歴のないことは最高の幸せといっていた。最大の弱点を最高、最大の長所にする生きる名人である。これは皆さん誰でも随所に活用できることだと思う。
若いときから病弱で寿命は20歳といわれていたので、物事を長期で考えるようになる。そのことによって事業の使命に気づく。
色々の悩みを抱いていたころ天理教に連れて行かれ、「ひのきしん」という何年に1回、本殿を替える行事に全国の信者が集まり、嬉々として本殿を築く姿に接して驚く。信者が「私には使命がありますから」と語った言葉に稲妻が降りたように感じる。「使命」という言葉にうたれ、現在も脈々と生きている「松下電器の使命」を築くことになる。「電気製品を無尽蔵に作って、250年かけて世界から貧乏を追放しよう」と呼びかける。その後、松下電器は大胆かつ順調に成長を続ける。この使命に気づいて以降、経営の節目で何の労苦もなく意志決定が出来るようになったし、皆が自然と動くようになったと回顧している。
250年を10期に区切り、25年ごとに次の世代がまた25年、10世代に亘って松下電器を運営していく。そして成功するまで続けようというもの。これが松下さんの人生哲学といえる。
京都の東山に真々庵という松下さんの思索の場がある。ここに根源の社があり、その前の円座に座り毎日瞑想する。宇宙を創造した根源を前にして天地自然と対峙し、自分の悲観主義を戒めるため素直になろうと唱えている。素直とは従順の意ではなく、虚無の心、空のこころ、こだわらない心を意味する。こだわりの心を無くして意思決定の現場に出て行こうという心構えを示している。
松下幸之助のメンターである大徳寺の立花大亀老師が、松下さんのことを「あなたは阿修羅だ」といった。「あなたは経済、経営、この社会の中で憂いを持ちながら戦っている、しかしこの戦いはしてはいけないなと思いながら同時に、最後は救いを与えようと戦っている。そういう阿修羅だな」と述べた。NHKでも話題になった阿修羅の眉間に八の字の皺が寄っているのが、松下さんの、若いときの経営の顔と一緒だなといっているように思えて老師のこの言葉が心に残っている。(写真クリック拡大)
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懇談会で講師の中博氏を囲んで歓談する皆さん (写真クリック拡大) |