19/05/29


1月勉強会(2010年1月6日)

テーマ:「自然災害から学ぶ家族主義」

講師の長島忠美氏

一般社団法人ディレクトフォースの1月勉強会は1月6日、学士会館において約120名の会員参加のもと開催されました。今回は平成16年10月に中越地方を襲った大地震で被災地となった新潟県山古志村の元村長で、現在衆議院議員の長島忠美氏を講師にお迎えし、「自然災害から学ぶ家族主義」というテーマでお話いただきました。
 震災を受けて全住民避難という苦渋の決断をしたのち、長く苦しい避難生活に耐えながら、ふるさと山古志村に帰りたいという全員の思いをかなえるため復興を陣頭指揮された同氏は、その過程で住民や子供たちから希望を持つことの大切さを教えられ、住民の一体となった協力や互いのおもいやり、家族の絆の深まりに支えられながら、驚異的ともいえる短期間のうちに村の復興と全住民の帰郷を果たされました。そのお話は聴く人の心を打つ感動的な物語でした。要旨は次のとおりです。

 

1.山古志村の村長となった理由

一つの理由は、過疎化の進展とともに村に元気がなくなり、子供たちはふるさとに自信を持てなくなっていた。修学旅行中にどこから来たかと問われても、山古志村からと言えずに長岡の近くから来ましたと答える状況だった。これでいいのかという思いを持ったことにある。

二つ目は、大学へ入学するため村を離れるとき、見送りにきた母親が言った「お前の好きなようにして良いよ」という言葉だった。親として「帰って来なくても良いよ」とは一番言いたくないことだが、帰ってきても勤めるところがないからお前の好きなように歩んでいいよという意味だった。子供に帰って来いよと言えるふるさとづくりをしたいと思ったのが村長になった理由である。

 

2.大震災の発生

平成16年10月23日午後5時56分に中越地震が発生した。丁度あたりが暗くなり、どの家でも夕飯を準備している頃であった。立ち上がることが出来ず、強い揺れが続いている間は外に出ることもできなかった。あとで聞いた話だが、住民の誰もが死ぬと思ったという。

電気が消え真っ暗になっており、月明かりだけで辺りの様子はほとんど分からなかったが、想像したことがなく、経験したこともない地震がふるさとを襲っていることを知った。

軽トラックで役場に向かったが、600メートルぐらい行ったところで前に進めなくなった。4つのルートがあるが、すべての道路が根こそぎなくなっていたのだ。

電話が通じず、携帯電話で県の災害対策本部に連絡を取ろうとしたが、電波塔が倒れたのかこれもかなわない。車で聞いたニュースでは不思議なことに被災地の情報の中に山古志村の名前が出てこない。役場の非常用防災回線が使えなくなっているのかもしれないと焦りを感じた。山の上にのぼり、ようやく携帯電話で県庁の対策本部と連絡が取れた。対策本部には山古志村の連絡が入っていなかった。壊滅的被害を受けたので救助を要請する、状況が分かれば追って連絡すると伝えることが出来たのは震災発生から5時間を過ぎた午後11時であった。

長岡や小千谷に出かけて帰ってこられない職員がいた。かれらに村に帰って村民救助に当って欲しいというべきであったかもしれないが、そこにとどまり私の連絡を待つよう伝えた。歩いて帰ろうとする人がいるはずだが危険だから止めて欲しいとも言った。そのときには未だ全住民避難を想定していたわけではない。

 

3.苦渋の決断と救助の要請

夜が白み始めたとき携帯電話が鳴り、知事から何が必要かと問われ自衛隊のヘリコプターをよこして欲しいと答えたが、そこで携帯電話が切れてしまった。

役場に向かって歩き始め、山古志中学校に到着して唖然とした。ヘリコプターに降りてもらおうと想定した駐車場がなくなっていた。標高470メートルの小さな山が頂から崩れ、張り付くように建っていた20数戸の住宅は流されてしまっていた。

中学校校庭に250人の住民と役場職員に集まってもらい、山古志村災害対策本部をここに設置すると言ったのが午前6時過ぎのことであった。

自衛隊のヘリコプター乗員、消防、警察の人たちから情報をもらって午前10時過ぎに村の大体の様子をつかめた。周辺の道路がすべて寸断され孤立している、電気、電話、水道すべてが使えない状況であること、住宅の約半数が壊れてしまっている、住民が1箇所に集まり救助を求めていることが分かった。

自分の使命は住民の命と財産を守ることと考えていたが、最初に直面した課題は住民の命・生活をどのように守り取り戻すのかということだった。状況が分かればわかるほどこの災害が生易しいものではない、果たして元の姿を取り戻すことが出来るのかと考えた。一方で、いくら村長でも大切な財産やふるさとを捨てろと皆に言えるのか随分思い悩んだ末、全員避難の決断をした。職員から村長の判断は正しい、協力すると言われてはじめて県庁と自衛隊に救助を求めた。全住民を避難させて欲しい、道路が寸断されているのでヘリコプターを動員し、明日中には避難を完了させていただきたいとお願いした。そして翌日午後3時には避難が完了した。

 

4.村長としての責任と自分への約束

全員の避難が完了したあと最後の現場点検をしながら、これだけは生涯誰にも言わないでおこうと心に決めたことがある。それは、この震災は自然の猛威、人間の力が及ばない世界ではないのか。再びこの村に住むことが出来ないかもしれないという思いであった。今振り返ってみて確かに自然の猛威は強い、しかし気持ちが一つになったときには人の力はもっともっと強い。あのときの自分の思いを住民に話さないでよかったと思っている。

午後5時に最後の1人としてヘリコプターで村を離れたが、そのとき村を捨てるのではない、必ず戻って皆で村を取り戻す。それが自分の自分への約束であり、その約束を守ることが素直に指示に従ってくれた住民に対して責任を果たすことになると考えた。

避難して最初にしたことは住民の前に立ち、十分な情報も伝えられなかったのに指示に従ってくれたことに対し感謝の意を述べ、生きていて良かったと話したことだ。

職員には家族のところに戻りなさいというのが人として言うべき言葉であったかもしれないが、住民は絶望の中にいる、だから力を貸してもらいたいとお願いした。その後も今日まで職員は良く協力してくれたと感謝している。

 

5.厳しい避難生活を乗り越えて

毎日避難住民のもとを訪ねることにしていた。「これだけ多くの人が応援してくれている。頑張ろう」と声を掛けたら「何の希望も示さないで何を頑張るのか」と反発を受ける失敗をした。

そこで全員を前にして、山古志村にいつどんなかたちで皆が戻れるか復興計画を早急に取りまとめるのでそれまで待って欲しいとお願いした。そしてもう我慢するのは止めよう、我慢できないときには自分に連絡して欲しい、自分だけには本当のことを言ってもらうようにと頼んだ。

集会所を設けお茶呑み会に参加してもらい、住民には問いかけるのでなく話し合う中から本当のことを聞き出すように努めた。

限られた部屋数の仮設住宅での生活は厳しいものがあった。しかし、考えられないことに息子や娘と生涯であんなに向き合うことはなかったぐらいよく話をするようになった。部屋が狭くても生きていける、家族とはいいものだなと感じた。

仮設住宅のことを考えたとき、一番つらい思いをする人は最後に出る人だ、それは自分以外の誰であってもいけないと考えていた。妻はそれを察し、村に帰るまでの間に本格的な農業を学びたいと言って勉強をしていた。今は村に帰って百姓の政策委員長をしている。逞しいものだと思う。3年余りの仮設住宅の生活で地域の人々が互いに支えあう姿が蘇るとともに、家族の有難さを改めて痛感した。

 

6.子供たちに教えられたこと

避難生活中、子供たちから挨拶が戻ってこなかった。子供たちには被災した村を見せれば心が壊れてしまう、綺麗になった山古志村に連れて帰りたいと考えていたが、これは自分の間違いであった。高校生から聞いた話では、被災以降大人たちは右往左往している、何が何だか分からずにただ一生懸命やっている。でも自分たちには何も教えないで、ただ学校に行けという。どうしていいか分からなかったという。

そこで、子供たちの心が壊れるかもしれないが、そのときには抱きしめてやって欲しいとPTAの人たちに話をし、自衛隊にお願いして子供たちに上空から被災地を見せることにした。

子供たちは涙を流しながら帰ってきたが、数日後挨拶とともに「村長さん頑張ってね」という言葉が返ってきた。子供たちは悲しい現実を見ても希望を捨てていないことを知り、恥ずかしく思うとともに、子供たちのおかげで頑張れると思った。

被災のあと大人たちは右往左往していたかもしれないけれど、ふるさとが大好きだ、ふるさとに帰りたい、また皆で一緒に暮らそうと一生懸命がんばっていた。その思いを子供たちはもっと早く知りたいと待っていたのかもしれない。

山古志中学校の卒業式のとき、子供たち全員がこの村に生まれてよかった、この学校でよかったと言ってくれた。祝辞を求められ、言う言葉がなかった。ただ、地震以来希望を失わないでいてくれた皆の姿に感動しているとだけ話した。

 

7.住民の気遣い

被災した年の10月28日、疲れて帰ったときコンビニで買った缶ビールと漬物が差し入れされており「疲れたでしょうからこれを飲んでゆっくり休んでください」、そのあとに「希望を与えられる村長さんでいてください」と書かれていた。避難所にいる住民からであった。避難所にいて自分のことすら考えられないときに私のことを気遣ってくれる、その思いがとても有難かった。私はその缶ビールを飲むことができず、そのとき全員が仮設住宅から自立するまでは酒は絶対飲まないと心に決めた。勧められても、小さな約束を守れない人は大きな約束を果たすことはできないとことわり続けた。その缶ビールは今でも我が家の仏壇に飾ってあり、自分が死んだときには一緒に焼いて欲しいとお願いしている。それほど大切な缶ビールである。

 

8.集落を守るということ

村に帰るに際し自分の力だけではどうにもならない、手助けを必要とする人たちには一つの住宅に入ってもらって手厚くケアーすることが望ましい。それでも、もと居た集落の一員として一緒に帰ってもらい皆で支え合う、お互いに気心が知れた者として暮らすのが幸せなのだ。そうすればこうした人たちも社会感覚を持って生活することができる。それが集落を守ることになると考えた。

 

9.希望の灯をともしたスピード復興

現場に臨み、住民のふるさとへの思いを理解してくれた国交省と県の役員が、こんな気持ちを持っている人たちが住んでいる所であり、その思いをかなえてあげるのが自分たちの本来の仕事と受け止めてくれた。延長10.5キロメートルの道路、新しいトンネルが1本、新しい橋が2本、誰が考えても早くても7年、急いでも5年は掛かるとされた工事を2年でとお願いした。翌日から国交省が猛烈な勢いで災害復旧工事を行い、1年10ヶ月11日で完成し一番に山古志村に通じた。このことが1日も早く帰りたいと願っていた村民に希望の灯をともすことになった。

 

10.家族を抱きしめられる幸せ

震災を経験したから言うのではないが、家族がいるから頑張れる、家族がいたから立ち上がれた。支え合うのも家族、家族でいるからこそコミュニティーのことも学べる。血の通った家族は一緒に隣に住んでいる地域の家族に対して、もっともっと暖かい心を持つようになるはずである。しかし残念なことに新聞やテレビで悲しい事件が報道される。

大人たちは自分のことを考え、あまりにも子供たちにいろいろなことを押し付けすぎているのではないだろうか。子供たちにとってそのことが家族を家族と思えないほどプレッシャーと感じているのかもしれない。地震のとき、そんなことはどうでも良くなり家族を抱きしめることしか考えられなかった。ふるさとに帰りたくても帰れないとき、家族と向き合って家族を抱きしめられる幸せを感じた。

日本の国民として、日本の家族として家族を抱きしめられることが一番幸せだと思える社会をつくることが悲しい事件をなくす一番の近道でないかと考えている。

 


(写真=懇談会で講師の長島忠美氏を囲んで歓談する皆さん クリック<拡大)