山普@雅史
2010年10月末にDFからいただいたイスタンブールで日本財団が支援している中央アジアからの留学生を対象に自動車の海外進出、品質等をテーマに講演してもらえないか、との依頼に二つ返事でOKしてしまった。
受けたもののはてどうするか、それから自分なりの試行錯誤が始まった。1970年代後半、1980年代後半、そして1990年代前半と通算10年間北米に駐在し、日本の自動車メーカーの苦悩と成長を現地で体験した内容を中心にまとめてみようと決意するとストーリーがどんどんと頭の中で固まり始めた。
不覚にも新しい年の初めにひいてしまったインフルエンザで体力が落ちた状態で1月14日飛行機に乗らざるを得ない羽目になった。救いはトルコ航空のビジネスクラス。噂のハイレベルの機内サービスとフルフラットの座席に助けられなんとかイスタンブールに到着した。
翌15日はイスタンブール工科大学でまず日本財団尾形理事長の奨学金授賞式のオープニングの挨拶があり、それに引き続いてDFからの講演となった。講演のタイトルは「日本の自動車産業の更なるグローバライゼーションとその課題」としたが、キーワードは「逆境をチャンスに」に決めていた。それは1950年の朝鮮戦争以降の日本の自動車産業の奇跡的な成長を紐解くと、逆境をチャンスに変える姿が明確に浮かび上がってくる。1970年代の米国クリーンエアアクトに基づくマスキー法(排気ガス規制)をいち早くクリアしたのも日本の自動車メーカーであり、1973年のオイルショックからの教訓を生かし79年のオイルショックでは低燃費車で、北米市場で攻勢に出たのも日本の自動車メーカーであった。
日本の自動車メーカーの品質向上のための地道な活動とその活動を支える様々な仕組みや考え方も紹介した。更に今、100年に一度といわれる環境技術面を中心としたハイブリッド車や電気自動車に代表される技術革新の大波の渦中にある現実、更にはスマートシティやスマートグリッドについても触れておきたかった。山ほど説明したいことはあったが流れの軸は「逆境をチャンスに」から外さず、この言葉をこれからそれぞれの国を様々な分野で引っ張っていく奨学生たちへの贈る言葉とし講演を締めくくった。
聴いている学生たちの眼の輝きが今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。男性34名、女性10名、理科系21名、文化系23名であったと記憶している。出身国はキルギスタン、トルムメニスタン、アゼルバイジャン、カザフスタン、タジキスタン、それにウズベキスタン。地図を見るとほとんどの国がカスピ海と天山山脈の間に位置している。講演後はハイブリッド車の将来性、カンバン方式、韓国の自動車メーカーをどう思うか、日本の会社での上司と部下の関係、果ては電気自動車の出現に対してオイルメーカーはどう思っているか等々、実に活発に質問が次から次へと出てくる。そして講演が終わると今の講演内容をソフトコピーでもらえないだろうかと何名もの学生が押し掛けてくる。彼らの輝く瞳とその小気味のいい反応に感動を逆にもらう結果となった。
その日の夜は日本財団、JATCAFA(日本トルコ中央アジア友好協会)の方々と奨学生たちの夕食会に招かれた。そして夕食を共にしながら奨学生たちがこの日のために練習したというそれぞれの国の紹介や踊り、寸劇を楽しませてくれた。政情が決して安定しているとはいえず、また国の将来が不透明ななかで、懸命に勉強し自分の国をやがてはリードしていこうという夢が彼らからひしひしと伝わってくる。そこには今の日本の若者にもぜひ望みたいたくましい生き方があり、羨ましくもあった。
イスタンブールでの自由時間は1月16日の一日だったが朝から生憎の雨。まずは雨に煙るボスポラス海峡の景色を高台から眺めた。そして傘をさし地図を片手にトルコ建国の父アタテュルクの銅像が立ちイスタンブールの中心地であるタクシム広場から、イスティクラル通りを散策した。レトロなトラムが走り、新旧が入り混じった街をすこし路地に入りとそこは別世界。中世にタイムスリップしたような錯覚に陥ってしまう世界が拡がっている。
5日ぶりに戻った日本は安全で清潔で気持ちはいいが、何かが足りないと感じた。それは目まぐるしく変化していく世界の流れから取り残されているという危機感に欠けているのか、取り残されないようにしようとするだけのエネルギーを失ってしまったのか、活気に欠けている気がしてならなかった。そして今でもイスタンブール工科大学で会った奨学生たちのキラキラと輝いた瞳が脳裏から離れない・・・。
今回の貴重な機会を与えていただいた日本財団とDF,そして現地でサポートしていただいたJATCAFAの方々に心からお礼を申し上げます。
以上