Study Teams(分科会)

渋沢栄一の研究

ここに注目(2022)

2023年2月22日

DF渋沢研究会『現代語訳論語と算盤』第九章「教育と情誼」より

★『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)p.203を中心に、感想を述べてみます。

渋沢栄一は論語と算盤の随所で、徳川家康を賞賛している。そして徳川260年の治世は、家康公の「論語」の教え(孔子の教え)によるものであると述べている。p.203では、その視点からみると明治に導入した教育は、「あいつも俺も、同じ人間じゃないか。あいつと同じ教育を受けた以上、あいつがやれることくらい俺にもできるさ」という風潮であったと述べている。

  1. 「司馬遼太郎(濱名が大好きな作家であるが)は、世襲、情報の閉鎖性、安定の三点がそろう日本型共同体の権化として、家康と徳川家を描いていた」と、国際日本文化研究センターの磯田道史教授(日本史学)は指摘している。

    これについての濱名の見解を述べるとしよう。「情報の閉鎖性」には異論はない。「知らしむべからず、拠(よ)らしむべし」という、日本の伝統的統治方法、近年では、3・11の福島第一原発事故でもそうであった。アメリカ大使館は在日アメリカ人に対して、東京を中心とする関東地方からの退避を命じていたのです。それ程の危機が迫っていました。東電の清水社長(当時)は家族を関西に避難させました。この時の「情報の閉鎖性」を見るだけで十分と言えます。(時の政府は自民党ではなく民主党(当時)であった。この点は野党とかリベラルを称している日本人と、保守勢力とに、全く区別は付けられないという事実が露呈されている)この統治方法は江戸時代に完成されたのかも知れないと思う。

    最近のニュースでは11月13日にカンボジアのプノンペンで東アジアサミットが開催された。この時の岸田首相の「ロシアのウクライナに対する侵攻は、力による変更であり許すことのできないことである」という4月の発言の繰り返しを行った。これに対してロシアのラブロフ外相は烈火のごとく日本を名指して批判していた。しかしながらこのニュース(スクープ)は一度だけ活字で報道されて、次の日には消されていました。そして11月18日には北海道の渡島大島の西方200㎞の排他的経済水域内に、北朝鮮からの弾道ミサイルが落下しました。
    上記のこの二つの関係性を「推測でも報道した」メディアは一社も有りませんでした。これも私は「情報の閉鎖性」と解釈しています。

    江戸時代が、世襲制度と身分制度で極めて安定した世の中を創出してきたことも事実であったと思う。秀吉の刀狩以来、兵農分離で世の中が安定してきた。平和という視点からは大きな功績であった。江戸時代には、5人組という相互監視社会も同時に導入されている。

  2. 「司馬遼太郎は敗戦を経験した陸軍で、正しい情報が閉じ込めがちな日本人をみた。それが日本の大きな間違いだったと考えたとき、遠因を徳川長期政権に求めた」と、磯田教授は語っている。
    しかしながら、小生(濱名)は敗戦を経験した陸軍で、最も想像すべき組織的欠陥の原因は、渋沢栄一が指摘した「あいつも俺も、同じ人間じゃないか。あいつと同じ教育を受けた以上、あいつがやれることくらい俺にもできるさ」という風潮をもたらした明治時代。欧米から導入された教育が、欧米では南北戦争やフランス革命などの血のにじむような「市民革命」を経て獲得されたものであった。そこには歴然とした階級社会も併存していたのであった。日本ではその素地が無い状態で導入されたからではなかったのかと考えている。士農工商の身分制度から解放された人々のエネルギーのみを頼りにしていた。そこには「支配階層が持つべき、克己心や真の教養」というものがなおざりにされていった。

    大東亜戦争・太平洋戦争後の日本の庶民や一部のリーダー層も同様の風潮の下、戦後のアメリカ直輸入の「民主主義」を導入し、それを「善・良し」として戦後復興に励んできたのであった。日本にも「民主主義の本当の意味でのスタディのチャンス」はあった。世界的な1968年世代のムーブメント(アメリカではベトナム反戦とピッピ―文化、学生運動である)と同時に、日本でも起こった。が、時の政府とそれを支える知識層・インテリゲンチャに、それを「真の自由主義と民主主義のスタディ」に転化・昇華させる胆力と知恵が存在しなかったのである。今日の「世界の中の日本の舵取り」の迷走の真の原因はここにある。この認識なき「掛け声」は、ほとんど自己満足的なものに終始している。

    明治の教育導入は技術導入が先行されて、精神的な陶冶や人格的な陶冶と自己抑制の教育がないがしろにされた。その結果、富国強兵を標榜した日本国ではあったが、陸軍では「参謀」クラスが上記の考え・思いで戦場を指揮していったのではなかろうか?と想像する。それが現場での戦略や戦術に反映されたと考える(事例は、割愛もしくは口頭にて)。
    このような悪しき伝統が、すでに渋沢栄一がみた明治の時代にすでに始まっていたということである。

    江戸時代の窮屈な身分制度から解放された「人的なエネルギー」が、近代国家日本を作り上げていったのも事実ではあるが、同時に軍事(陸軍・海軍)に本当に必要な「頭脳と胆力」を組織的にマスとして育てていくことまでには及ばなかったのではなかろうか。

    近代明治の「光と影」として、「教育」についても、正しく把握し直すことが、現代の今日の「世界の中の日本」を考え、かじ取りを行う際に必要なことであると思う。司馬遼太郎の代表作品の一つである「坂の上の雲」は、我が国の輝ける「光」の明治近代の一側面ではあるが、明治の「影」の部分把握もまた必要であろう。その意味で、「渋沢栄一とその時代」を研究することは「現代と未来への懸け橋」と成りえると思う次第である。

    長くなりましたが、この様な考えをメンバー間で披露し合うのも、研究会としては有っても良いと考えます。
    約2年間の(100歳総研渋沢栄一分科会での)研究会・読書会を経てきた訳ですから、次のステップとして「渋沢栄一から始める研究会」というのが、渋沢栄一翁の真に望まれたことではなかったのか。
    単なる渋沢栄一の生涯を研究して「回顧主義」にふけるだけでは、戦後の民主主義教育の恩恵に浴してきた我々の栄一に対する恩返しとしては不十分と思う次第である。

以 上(濱名 均)