環境部会 トピックス

第10回   DF環境サロン開催

撮影:保坂 洋
2023年9月6日

7月31日(月)15:00~17:00、対面+Zoomのハイブリッドで第10回環境サロンを開催した。「タンザニアの自然と環境と社会を語る」をテーマに、山本明男会員(977)、三浦陽一会員(1172)、中西聡会員(900)の3人から話があった。参加者は約30名。

山本:「今年の5月、夫婦で7泊10日のタンザニア・ツアーに参加した。日本より延べ31時間かけて最初はキリマンジャロの麓の町に1泊、次にンゴロンゴロ保全地区に2泊してサファリツアー、セレンゲティ国立公園に3泊してのサファリツアー、最後はインド洋に面する国内最大の商業都市ダルエスサラームに1泊して市内見学。タンザニアの基本情報、サファリ体験/市内観光記は以下の通り。」

  1. タンザニアの概要 面積 94.5万km 2 、人口 6,385万人(毎年3%増加)、民族約130、公用語はスワヒリ語と英語、GDP:世界71位(毎年5%で成長)、独立:1964年(英国より)
  2. タンザニアのGDPは農業が28%、労働人口の70%が農業に従事。貧困削減のため政府による農業開発が進められている。金の輸出が全体の35%を占める。
  3. タンザニアの歴史 7~16世紀にかけてアラブ人やペルシャ人が渡来し、スワヒリ都市・文化を築く。その後、ポルトガル領時代、オマーン帝国時代、イギリス・ドイツ植民地時代、イギリス・ベルギー植民地時代を経て、1961年に大陸側のタンガニーカが独立。1963年、ザンジバルが独立。1964年、両国が合併しタンザニア連合共和国が成立した。
  4. 東海岸沖にあるザンジバル島は黒人奴隷売買跡の世界遺産があり、今では保養で欧州からの観光客が多い。
  5. セレンゲティ国立公園の東にあるオルドバイ渓谷を訪問。ここは300万年以上前の人類の祖先発祥の地として有名。
  6. 「ンゴロンゴロ」はマサイ語で「大きな穴」の意味。300万年前にできた火山カルデラで、外輪山の標高は2400m、内部の平野の標高は1800m。東京都23区の面積の半分の広さがある。カルデラには湖や湿地があり、サバンナ生息の動物はほぼカルデラ内で一生を終える。マサイ族はンゴロンゴロ保全地区での共住を許されている。
  7. 「セレンゲティ」はマサイ語で「果てしない草原」の意味。1981年に世界自然遺産に登録。面積は四国とほぼ同じ。世界最大級の野生王国で毎年、世界中から観光客が訪れる。セレンゲティ国立公園内は厳しい環境保護管理下にあり、マサイ族も含め居住禁止。
  8. マサイ族はケニア南部からタンザニア北部一帯に住む先住民。人口は推定20~30万人。定住はせず、牛、羊、ヤギ等の家畜遊牧で生計を立てる遊牧民。牛は最も重要な財産で、通貨として機能。一夫多妻制をとり、今でも原始的な生活をしている。主食は牛乳、牛の生血、穀物類で野菜はほとんど食べず、驚異的な視力を持ち、一日に何十キロも歩く。
  9. 砂漠化が進むアフリカにおいて、タンザニアは高い人口増加率も相まって、ナイジェリアに次ぐ2番目の森林消失国。1990年から25年間で約2割の森林が失われた(毎年、東京都の面積の2倍の森林が失われている)。
  10. タンザニアでは環境保全・維持のため、2019年6月よりすべてのビニール袋の輸入・輸出・製造・販売・保管・供給・使用が禁止。但し、医療・工業製品・建設業・食品・衛生および、廃棄物管理用のプラスチックまたは包装は禁止の対象外。
  11. 旅行者は入国時にビニール袋の所持品検査があり、すべて持ち帰りが原則。店でのビニール袋包装はなく、エコバッグ持参か不織布バッグの使用が義務付けられている。
  12. タンザニアに拠点を置く日本企業は、建設、商社、旅行会社等で数は限られるが、近年増加している。
  13. 北部のアルーシャでは住友化学が現地企業と合弁で、マラリア予防用に防虫剤を練り込んだ蚊帳「オリセット・ネット」を製造している。
  14. 2017年に関西ペイントがタンザニアに進出し、防蚊成分を含む漆喰塗装をしたトタン屋根の普及を目指している。
  15. 鹿島建設は1970年以降、日本政府による無償援助プロジェクトとして、数々の橋梁、道路、農業用水路などの施工に従事している。

三浦:「1987年に駐在地のロンドンからタンザニアに出張。1998年には駐在地のミラノからキリマンジャロ登山のため再訪。2回のタンザニア訪問の記憶と記録は以下の通り。」

「1987年」
  1. 生まれて初めてのアフリカは強烈な体験だった。社会主義政策が破綻し、ビルはボロボロ、道は穴だらけ。当時の一人当たりGNIは180ドル(現在は1100ドル)。
  2. 入国時にUS$50を強制的に現地通貨に変えさせられた。しかし、モノ不足で市内では買うものはほとんどなく、ホテルでの食事代を現地通貨でその都度払い、何とか使い切った。
  3. ビールは現地生産していたが、紙不足でラベルもなく、なんというビールか判らないまま飲んでいた。東ドイツ大使館の経済担当に話をしに行ったら、美味しい東独製ピルスナーをご馳走になった。
  4. 当時はTV放送すらなかった。(タンザニアのTV放送開始は1994年)
  5. タンザニアの後、ケニアとウガンダを訪問。ケニアは同じ旧英領の国なのに、豊かさが違うと感じた。レストランのメニューが豊富で、日本食レストランさえあった。TVがちゃんと放映されており、天気予報を見て感激した。
  6. ウガンダは内戦終了から間もなくで、国内はまだ混乱。高層ビルを階段で上り下りしたが、銃弾の後が生々しかった。空港からカンパラ市内に入る途中では、少年兵に銃を突き付けられて検問を受けた。夜は軍があちこちで検問をしており、とても不気味だった。
「1998年」
  1. 車が増えその多くが日本の中古車だった。日本のミニバンが大人気だった。
  2. 街のあちこちに小さな商店があり、日用品や食品はかなり充実していた。以前のモノ不足とは別世界だった。
  3. 内戦などで疲弊したアフリカの国が多い中で、タンザニアは政情が安定していた。タンザニアの発展はその影響が大きいと感じた。
キリマンジャロ登山(5泊6日)

初日:標高1800mのマチャメ・ゲートから国立公園に入り、熱帯雨林を標高3000mの森林限界まで歩く。マチャメ・サイトでテント泊。2日目:標高3800mのシラ・ケーブ・サイトまでゆっくり歩く。溶岩台地の広々としたサイトでテント泊。3日目:標高3800mから4000mに広がる溶岩台地を散策。前日と同じサイトでテント泊。4日目:空気が薄く一歩歩くたびに深呼吸しながら、標高4800mの最終キャンプ・アロー氷河へ。5日目:頂上への最終アタック。午前6時30分、標高5895mのウフル・ピークに登頂(ウフル・ピークの氷河は2018年に登頂した友人の写真と比べると後退は明らか)。その後下山して、3000mのキャンプ泊の予定がトラブル発生のため、山頂から1800mのムウエカ・ゲートまで12時かけて一気に下山する羽目になった。

中西:「2015年にJICAの【タンザニア大水深ガス田・LNG開発プロジェクトの調査】の仕事で3回出張。この時の体験を基にタンザニアの今を伝える、教育、産業、政治の一断面を紹介する。」

  1. 2017年、往年のマラソンの名選手イカンガー氏の努力によって、タンザニア初の女子陸上全国大会「Ladies First」が開催された。参加した選手の3割は経済的理由から裸足で出走。これにショックを受けたイカンガー氏からの要請で、日本の草の根運動家が、中古のランニング・シューズ300足を集め現地に送った。今年、第4回「Ladies First」が開催され、約210名が出場した。 https://www.jica.go.jp/information/topics/2023/20230406_01.html
  2. タンザニアは女性の地位が低く、女子教育の不備が際立っている。2016年、慶応大学・故名誉教授 岩男寿美子 によってキリマンジャロの麓のアルーシャに「さくら女子中学校」が設立された。本学校はタンザニア社会を担うリーダーの育成に力をいれている。校長の Frida Tomito 氏から、「いつか日本の皆さんがさくら女子中学校に来て、生徒と交流してくれることを願っています」とのメッセージが寄せられている。 https://www.sakura.vision/
  3. タンザニアでは旺盛な電力需要の伸びに加え、主力電源である水力発電の渇水による発電量低下から慢性的な電力不足に陥っている。2018年、住友商事はダルエスサラームの郊外に大規模天然ガス火力発電所を建設し、タンザニアの電力不足の改善に貢献している。地元の議員からは、「若者に仕事を探してくれたり、学校のことも考えてくれたり、大変有り難い」と評価されている。 https://www.sumitomocorp.com/ja/jp/news/release/2016/group/20160317
  4. 南部ムトワラのガス田からダルエスの火力発電所まで天然ガスを運ぶパイプライン(口径36インチ、約500km)は、中国の援助で敷設された。2013年、キクウェティ大統領が出席して起工式が行われ、中国大使は「中国はタンザニアの発展に深くコミットしている」と演説した。一方、ムトワラの住民の一部には、「ガスパイプラインの建設はダルエスの経済発展のためである。地元には何の恩恵もない」とする根強い反対意見がある。
  5. 2013年、習近平主席はタンザニアを訪問。キクウェティ大統領は、ダルエスの北のバガモヨで中国が進める大規模港湾開発プロジェクトを承認した。しかし、2020年、マグフリ大統領は債務の罠に陥る危険があるとして、この開発計画を破棄した。後任のサミア大統領は就任後直ぐに中国を訪問し、中国との関係を深める方針を打ち出した。しかし、本プロジェクトの経済性には疑問があり、プロジェクトの今後は不透明である。
  6. 2010年、モザンビークの大水深鉱区で大規模なガス田が発見され、タンザニアでも大水深鉱区の試掘が開始された。この結果、水深2500mの海域に大規模ガス田が発見され、ShellとEquinorはLNGとして出荷するプロジェクト(年産1000万トン)を長年検討してきた。昨年、本プロジェクトの実施に関わる、政府と石油会社の権利と義務を規定する協定書(HGA)が締結され、2025年に本プロジェクトの最終投資判断がされる見込みとなっている。
    https://oilgas-info.jogmec.go.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/264/2102_g_c_tz_tlng_hga.pdf https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12265294_01.pdf
    https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12265294_02.pdf
  7. 2021年マグフリ大統領の急死を受け、サミア副大統領(女性)が大統領に就任した。サミア大統領はマグフリ大統領の強権政治の傷跡を修復し(マグフリ大統領時代、外国に亡命を余儀なくされた野党政治家の帰国を認めるなど)政治の安定化に努めている。又、サミア大統領は外国投資の受け入れに開放的で、タンザニアLNGに関わるHGA(Host Government Agreement) の締結に指導力を発揮している。
  8. 観光はタンザニアの重要な産業である。サミア大統領はサファリツアーと世界遺産都市ザンジバル観光のプロモーション映画 (Tanzania Royal Tour) に出演し、観光産業振興の旗振りもしている。ザンジバル編の映画には、オーマン帝国時代の砦の中の野外劇場で、東アフリカ・スワヒリ文化圏一帯で流行するタアラブ音楽コンサートを楽しむ様子が写されている。クイーンのフレディマーキュリー、サミア大統領はザンジバル生まれである。
    https://www.thecitizen.co.tz/tanzania/news/national/what-the-royal-tour-means-to-tanzania-3797120

この後、サロン参加者と活発な質疑・意見交換が行われた。(Q:質問、A:回答、C:コメント)

C(山本)
サミア大統領の評判は良い。前大統領は強引な政治を行っていたが、今後、タンザニアも変わっていくと思う。
Q(石毛)
アフリカ諸国は植民地支配を受け、また、内戦が多く経済成長ができていない。なぜタンザニアには内戦はなかったのか?
A(三浦)
ケニアは1963年の独立前に内戦があった(マウマウ団の乱)。ウガンダでは1962年の独立後、1981~1986年に内戦があった。しかし、タンザニアでは一度も内戦は起きていない。タンザニアの初代大統領となったニエレレはカリスマ性があり、社会的平等、民族間の平和維持を掲げて独立運動を主導した。タンザニアには120を超える部族があり、それぞれが独自の言語(母語)をもっている。スワヒリ語は海岸地方に住む特定のグループの言語であるが、ニエレレは独立後、スワヒリ語をタンザニアの公用語にし、それによってタンザニアの共通言語となった。スワヒリ語はニエレレ大統領の母語ではなく上手くなかったが、演説を繰り返すうちに上手くなった。タンザニアでは1967年以降、部族意識が強くなり過ぎないように、部族の人口調査をあえて行っていない。このようなことが、タンザニアで内戦が無かった要因と思われる。1978年、ウガンダ(アミン大統領)との国紛争はあったが、タンザニア(ニエレレ大統領)の勝利に終わった。
C(山本)
マサイは人なつっこく、好戦的な人はいない。タンザニアの人は皆、穏やかで自治権や人権を尊重している。融和的でリーダー争いがない。上下の差がなく皆で楽しもうとしている。そういう点が周りの国と違うという印象をもった。
C(三浦)
本土の海岸沿いやザンジバルではムスリムが多く、内陸部ではクリスチャンが多い。しかし宗教上の争いは見たことがない。山本さん同様、タンザニアの人は穏やかだと感じた。
キリマンジャロに登った時、ガイド、アシスタント・ガイド、ポーターは皆部族が違っていた。しかし、共通語のスワヒリ語でうまくコミュニケーションをとり、問題はなかった。
C(山本)
サファリで泊まったホテルのレストランでは毎晩、コック、ウエイター、受付の女性など10人くらいが歌いながら練り歩いて、お客さんの誕生日を祝うパーティーをやっている。最後の晩、誕生日ではないのに3泊もしてくれたから特別に歓迎するといって、私達にも同様のパーティーをしてくれた。旺盛なホスピタリティ精神に感心した。
C(三竿)
エジプト以外はアフリカに行ったことはないが、アフリカの話は大変興味深い。タンザニアについて3人もの人から話が聞けたこと、多様な経験を持つ会員がいるディレクトフォースは凄いなと感じている。これからアフリカは経済でも環境問題でも重要になってくる思っている。アフリカの中でエジプト、ナイジェリアなどが進んでいる国と思うが、これからどうやってアフリカを引っ張っていくのか、興味をもっている。
Q(河井)
隣のスーダンは治安が悪いのに、ずいぶんタンザニアの環境は良いなと思った。ただ、病気になった時、タンザニアの医療は大丈夫か。
A(三浦)
東アフリカではケニアのナイロビの医療レベルが一番高いと思う。ただ、タンザニアも最近、医療レベルは上がっていると思う。
Q(河井)
山本さん、タンザニアに行かれるのに際して、病気、医療の心配はなかったですか?
A(山本)
タンザニアに行く時、予防注射は何もしなかった。アフリカには予防注射を打たなければならない国はあるが、タンザニアは必要ない。
A(三浦)
1998年、キリマンジャロ登山のため駐在先のミラノからタンザニアに行った時、領事館に問い合わせて黄熱病の予防注射を打った。ロンドンから参加した息子は、大使館で要らないと言われたので打たなかった。しかし、アルーシャに到着して入管時、イエローカードの提示を求められた。息子は黄熱病の予防注射は要らないといわれたので、持っていないと返答した。それを聞いた係官はにこっと笑い、同じくイエローカードを持っていないドイツ人と一緒に別室に連れて行き、「今日はクリスマスですね。タンザニア政府に10ドル寄付してくれたら、アルーシャの保健所が発行したイエローカードをあげます」と言った。そして、その通りにして予防注射なしで無事入国できた。寄付した金は入国管理事務所でプールして皆で使うようだった。アルーシャは高原地帯にあり、風土病はない。ただ、マラリアの予防薬は飲んだ。 https://www.tz.emb-japan.go.jp/itpr_ja/consulate_medical.html
C(中西)
タンザニアは経済発展しており、ダルエスにいる限り病気、医療の問題はない。私の知り合いの若い女性(住友商事勤務)は、天然ガス火力発電所建設の仕事で5年近くダルエスに駐在したが、健康上の不安はなかったようだ。ダルエスの国立病院では長年にわたり、「日タンザニア眼科医療支援チーム」が白内障手術などの医療支援を続けている。
Q(門田)
三井物産はモザンビークで事業をしている。モザンビークには中国企業が進出しており、その親戚だか一族が入り込んで中華料理屋をしっかりやっている。日本の駐在員もそこに良く通っている。中国の民間企業のアフリカ進出の状況は如何。
A(三浦)
中国の援助でダルエスからザンビアまで鉄道(タンザン鉄道)が建設され、1976年に完成した。それ以降、中国人が沢山ザンビアへ入ってきていると聞いている。1990年代、ザンビアの田舎でも中華料理屋は多かった。
A(山本)
中国は一帯一路政策の下、アフリカへの進出がすごい。モロッコ、南アフリカへ行ったことがあるが、モロッコには中国人の観光客が一杯いる。中国人経営のホテル、土産物屋までできている。南アフリカも中国人労働者、ビジネスマンが多い。
C(門田)
日本の若者はアフリカに全く興味がなく、アフリカを見ていない。日本の若者を啓発する必要がある。DFも何かしらその役割を果たせるのではないかと感じる。
Q(門田)
アフリカは暑いという印象が強いが、最近の東京の気温と比べてどうか。
A(三浦)
ダルエスは蒸し暑いが、アルーシャは1300m位の標高があり快適である。タンザニアの海岸線の気候は厳しいが、内陸部の高地は軽井沢のような気候で快適である。高地には蚊もいないし、疫病もない。
C(山本)
野生動物のいるところには、病気があるので注意が必要である。アフリカ睡眠病を媒介するツエツエ蠅は曲者である。車の中に入って来て、叩いても死なない。叩き潰す必要があった。
以 上( 中西 聡、 山本 明男、 三浦 陽一