ベトナムとともに30年~成し遂げたこととは?

メンバーズ・エッセイ
撮影:神永 剛

2023/12/16 (No. 403)
平井 隆一
平井 隆一

2023年の9月末から10月上旬にかけて、ベトナムを9日間に亘って北から南まで走って来た。実は、今から30年前の1993年に初めてベトナムの地を踏んでから30周年という記念すべき年の訪越である。しかも今年は、日本とベトナムとの間に正式に外交関係が結ばれてから50年というダブルで記念となる年でもある。

1993年3月に初めてベトナムに調査に入った。これからのベトナムの成長を見込んで、大型のセメント工場を建設する目的だ。

ハノイ事務所の皆さんと(2023/9)
ハノイ事務所の皆さんと(2023/9)
  • 1993年~1994年 F/S
  • 1994年~1995年 合弁契約交渉
  • 1995年12月建設認可取得
  • 1996年~2000年 工場・南部SS建設
  • 2000年4月第1ライン生産開始
  • 2010年6月第2ライン生産開始・中南部SS
  • 稼働開始
タインホア省ギソンセメント工場(2010)
タインホア省ギソンセメント工場(2010)

以上がそれからの経過だが、30年前のベトナムでは滅多にない総投資額400億円という大規模プロジェクト(第1期*)であったため、政府の認可を得るまでには相当な困難があった。
(*第2期を含めると総投資額700億円)

合弁交渉相手は「ベトナムセメント公社」という政府機関で、彼らの意思決定には全員合意が原則であるため非常に時間が掛かった。特に投資額の7割を占める借入金のかなりの部分を国際金融機関から借入したため、ベトナムサイドの抵抗が大きかった。国家全体の対外債務の許容限度がギリギリだったからだ。

当初、ベトナム政府が工場建設のためにインフラ整備を約束してくれたのが、政府には金が無く、地方に拠出するよう指示を出すも地方も金が無く、結局プロジェクトコストがアップすることになった。道路1億円、送電線1億円、水道1億円・・・・。おまけにベトナム戦争当時の不発弾撤去まで・・・・。当時の政府や自治体や合弁相手から説明を受けていた優遇策も口ばかりで、毎日「話が違う!」の連続であった。中でも唖然としたのは、セメント原料に必須な粘土山の「ダブルブッキング」事件であった。原料である石灰石山があるのはゲアン省(ホー・チ・ミンが生まれた省)で、彼らも自前のセメント工場を建設するのが夢だった。そのために私たちに提供された粘土山を違う名前で政府に登録し、我々のプロジェクトに供されるのを阻害した。結局ゲアン省の粘り勝ちで、私たちは違う粘土山を確保せざるを得なくなった。ゲアン省の夢は後日独自のセメント工場として実現された。彼らの根性は凄まじかった。曰く、「中央の虎より地方の龍」とよく言われたが、政府には何の力もなく、地方政権が実際の権力を持っていた。私たちのケースは特にあの偉大な国父・ホー・チ・ミンの出身地での話であった。

中南部のニャチャンの夜明け(2023/9)
中南部のニャチャンの夜明け(2023/9)

さて、ハノイから工場のあるタインホア省ギソンに向かう。当初は南北縦貫の鉄道は南部のホーチミンまで単線で、工場までの約210kmの間に大きな河を渡る鉄橋が3カ所あったのだが、鉄道と国道(1号線)の併用橋であった。即ち、列車が来たときは車は通行止め、長い長い連結の鉄道が行ったと思ったら、車は交互通行のため待ち時間は30分以上と言うのはザラ。

ホーチミン支店の皆さんと
ホーチミン支店の皆さんと

ようやく国道1号線から海の方へ曲がって工場サイトまで10kmのアクセス道路に入ったと思ったら、これが幅5m程度のガタガタ道。ランドクルーザーでも泥沼にはまってどうしようもない時、近所の農家から水牛を借りてきて牽引してもらう始末。

今では、ハノイの中心街からギソン工場入り口まで、高速道路が通じたので3時間余りしかかからず、アクセス道路を加えても3時間半もかからない。当時は工場まで10時間掛ったことを考えると隔世の感がある。

会社の設立と運営初期及び工場の建設中、私の当初の肩書は総務部長であったが仕事は複雑多岐に亘った。建設開始に先立って ① 土地の取得に関わること(立ち退き、補償、不発弾処理等)、② 建設工事の入札・契約、③ インフラ(水・電気・道路)の確保、そして生産の為の ④ 原燃料調達、⑤ 従業員採用、⑥ 資材・備品等納入業者・作業会社・警備会社の入札・契約、⑦ 対境関係・地元対策、⑧ 社宅・寮の整備、⑨ 従業員食堂の整備、さらに、販売の準備も必須となったので営業部長も兼務し、⑩ 販売店網の整備、⑪ 物流網(倉庫)の整備、⑫ セメント専用船の調達・運航、⑬ ホーチミン支店の開設、⑭ ホーチミンSSの建設、など。

1998年にはホーチミン支店長専任となり、中部~南部での物流・販売網整備及び南部SSの稼働準備に没入した。いよいよ2000年に生産開始となり、同時に積載量10,000トンの専用船の処女航海と南部SSでの初荷揚げを実現。遠くから満艦飾の専用船がSSに入港するのを固唾を飲んで見守ったが、その雄姿に感動して涙を流したことを今でも思い出す。

今回のベトナム訪問で最も嬉しかったのは、ハノイ事務所、工場、ホーチミン支店、南部ターミナルの幹部スタッフの多くは私が採用した人材であり、彼らがしっかりと会社の屋台骨を支える柱に育っているのを確認できたことだ。

また、工場のベトナム人従業員にとって大切な昼食の質と量の確保について、真面目な料理人兼食堂管理者を採用することができた訳だが、過日訪問した際、彼らは私を覚えていてくれて "Oh, Mr.Hirai!" と声を掛けてくれた。これもまた目頭が熱くなった嬉しいことであった。もう24年前の採用面接であったのに!

今の日本は「失われた30年」と言われているが、私とベトナムとの関係は「人と人の繋がりは30年でも消えない」という事実である。僭越ながら、これが私の成し遂げたことだと思う。

以上

<後日談>

  1. 私とタッグを組んだ当時の副社長ファミリー(左から3番目が元副社長。彼らが運営する学校にて)
    私とタッグを組んだ当時の副社長ファミリー
    (左から3番目が元副社長。
    彼らが運営する学校にて)
    私が現地の社長時代に時にはぶつかり、時には意気投合し協力し合った副社長と彼の家族に会ってきた。彼らとも30年の付き合いである。今はハノイの郊外に大きな学校を建てて運営し、ハノイでも十指に入る有名進学校になっている。当時小さかった息子と娘がしっかり成長して経営幹部となり、隆盛を極めている。
  2. 私が現地会社の総務部長時代にベトナム側から派遣されて来た副社長と電話で25年振りに「止むを得ず」話をした。彼はもう80歳近い年齢なのに、昔と同様に軽口をたたくなど、性格は変わっていなかった。1995年の合弁契約交渉時、彼は短気を起こして突然交渉の席を立ち、暫く中断せざるを得なくなり両陣営とも困らせたことがある。また、建設工事の入札前に、落札させるので賄賂をよこせとある建設会社に迫った。などなど、お荷物だった人である。今となっては好々爺然としているようだが、私は今でも全く信用していない。
  3. ベトナムの良心、とも言える人材を最後に紹介したい。合弁契約交渉中、ベトナム側に雇われた人材は英語が堪能で、極めて合理的且つ真面目な人。初対面から28年になる。私が現地会社の社長時代(2001年~2004年)に社長秘書として大活躍をした人でもある。今回も最初にベトナム訪問を連絡した私が最も信頼する人であり、ベトナムきっての国際人でもある。お嬢さん二人は両人とも海外暮らし。長女はロンドンでイギリス人のご主人と暮らし、次女はニューヨークで働いている。嬉しいことに、最近のテレワークの恩恵を活用して時々親元へ戻って来てくれるという。今年の秋も集合したそうだ。
     今回のベトナム旅行でも沢山のサジェスチョンを彼から得られたが、今、北部の少数民族の子女の教育ボランティアを務めており、彼らの生活レベル向上に努力を傾注している。
以上

ひらい りゅういち(1022)
(環境部会、企業ガバナンス部会、歴史研究会、超寿企業研究会、留学生支援の会、ジャズ同好会)
(元 太平洋セメント)