【就職氷河期での百貨店入社】
西武百貨店に入社したのは昭和51年(1976年)で、オイルショック後の就職氷河期でした。民主党政権時代の本当の氷河期とくらべても厳しい年でした。その前年も内定取り消し憂き目にあった先輩もおりましたが、「内定取り消し」への世間の風当たりもあり昭和50年の採用人数はまだ多く、高度成長の余韻がありました。その反動もあり昭和51年はどの企業に採用人数を問い合わせても「若干名」とのつれない返事。百貨店業界でも、希望していた高島屋は採用なし、三越、伊勢丹は、K大学出身者以外は特別のコネがない限り無理との「うわさ」であきらめました。 そんな厳しい時代に、自慢できる成績もないにもかかわらず、何とか西武百貨店に入社することができ、ほっといたしました。昭和51年の大卒入社同期は男女含めて16人とさみしい限り、翌年は、例年通りの採用数で我々昭和51年入社組はまさしく谷間の世代です。
【百貨店人としての第1歩は静岡西武の売場から】
百貨店人としてのキャリアのスタートは、最初の赴任地は静岡西武で、配属は子供服。百貨店の出世コースは、当時はまだ百貨店の稼ぎ頭であった婦人服、紳士服で、子供服は衣料品ですが、その他と同じ平凡な出発点からのキャリアスタートでした。配属された売場は、店頭で接客販売する女子販売員が中心で、配属先の係の男は係長と私だけであとはすべて女性。売場仕事の主役は、売場への品出しから販売まで担当する女子販売員が担い、男の仕事は裏方で商品の移動、値札付け、売れ残り商品の返品作業と毎日、段ボールを担ぐ肉体労働です。学校時代ろくに勉強もせず、勉強が好きだったわけでもないのに、百貨店の仕事に「大学出」は必要なのかと思う日々でした。新人のくせに一言多かったこともあり、2年後には人手の足りない販促課の広告宣伝担当へ移動、毎週のチラシ、新聞広告を作ることになりました。仕事はデスクワークかとおもいきや、広告写真撮りや商品の手配、印刷工場への出張校正作業などで連日深夜まで残業と「ブラックな働き方」となってしまいました。
【西武百貨店の本部営業企画室へ】
昭和57年(1982年)本部営業企画室へ移動。当時は、西武百貨店を中心に、グループ全体で約2兆円の売上を達成し、新卒就職先人気 No. 1 となった年もあり、毎年多くの新人が入社してきました。店舗数拡大に伴い、本部人員も補強していたことで私自身も「サンシャイン60」51階の本部営業企画室へ移動となりました。本部は、当時の堤会長の「ワンマン」で回っており営業企画室の仕事は、会長から発せられる様々な指示で動いておりました。特に宣伝部門は、堤会長自身が、グラフィックデザイナーの田中一光氏や、コピーライターの糸井重里氏などと直接コミュニケ―ションし西武の情報発信の方向を決めていました。営業企画室は堤会長から投げられた様々なテーマを百貨店の企画にするというのが仕事でした。昭和50年(1975年)の西武百貨店池袋店の改装で現代美術の展示企画を中心の西武美術館が新設され、同店にコミュニティカレッジができたのもこの時期です。
西武美術館でポップアートテーマの展示などが開催されると、そのテーマで百貨店の企画を作り展開するのが営業企画室の仕事でした。したがって現代美術や、アンディ・ウォーホルとかキース・ヘリングとかを知らないと企画など作れません。現代美術はおろか通常の美術の知識も教養もない私は、慌てて勉強しなおす始末。おかげさまでポストモダンやらバウハウスとかまで勉強させてもらいました。同時に、西武が流通業以外の事業にも手を出した時代でもあり、経営の傾いた吉野家を買収したのもこのころです。小売業以外の事業についても百貨店の営業企画室にその課題が下りてくるようになり、吉野屋買収を契機としたグループのレストラン事業戦略と、なぜか同時に自動車戦略の課題が会長より降ってきました。自動車戦略は、営業企画室に赴任したばかりの私が担当にされました。優秀といわれるスタッフが集まった営業企画室ですが、当然のことながら皆、百貨店しか経験していないので、こんな「ヤバいネタ」は来たばかりの新人に押し付けたのが実情です。当時、セゾングループには西武日産自動車とプジョーとサーブを売る西武自動車販売がありましたが、いずれも業績は低調で何とかしたいとのことでした。既存のディーラーテリトリーに抵触しないで新車を販売するとか、オートキャンプなどカーライフについて提案した覚えがあります。
【堤会長の意志】
堤会長とはどんな人か? 残念ながら当時スタッフであった私は、直接話す機会はありませんでしたが、降ろされる課題やテーマを通じて堤会長の意志はよく伝わってきました。堤会長がやりたかったことは、新しい生活文化を創造して発信し、百貨店の新しい顧客を作ること。さらには老舗百貨店の主要顧客である既存の富裕層を引き寄せることでした。昭和30年代には早くもエルメスを導入、その後もヨーロッパの特選ブランドを積極的に西武百貨店に導入したのも会長です。その当時の老舗百貨店は、ヨーロッパの特選ブランド導入には消極的でした。美術は印象派ではなく現代美術を、新たなリゾートライフを提案する沖縄リゾート開発などを積極的に仕掛けていました。バブルの時期には、営業企画室が企画したホテル催事で、ピカソの家族が所蔵していた未公開の2億円相当のピカソの絵画を複数展示、その他の絵画、宝飾品など高級品を展開し僅か3日間のホテル催事で100億円以上の売上を実現。広告宣伝では「不思議大好き」「自分新発見」「おいしい生活」とかのメッセージが注目され、就職先の人気ランキングは例年上位を維持し、西武百貨店にとって1980年代は、まさに輝ける時代でした。グループにとっての転機は、インターコンチネンタルホテルの買収とバブルの崩壊でした。巨額買収費用に加えその後の長引く経済低迷によって業績も低調となり、優良なグループ企業の売却を皮切りに、不採算店舗の閉鎖を続け、今や本体も投げ売りされる始末です。知見、ノウハウとも未熟な中で取り組んだ西洋環境のビジネスが現在の衰退の要因となりましたが、堤会長が試みた、新しい顧客作り、老舗百貨店の顧客、富裕層を自社の顧客にするという「意志」は、今後のそごう・西武の再生を見据えた中でも引き継ぐべき方針であると思います。
【エピローグ】
小説家でもある堤会長は、文化芸術への知識も教養も深く、さらには多岐にわたる事業を展開する企業グループの経営者でもありました。経済界だけでなく文化芸術など多方面わたり、それぞれの分野の一流人との交流があり、さらに読書量の多さでも会長の知識量にかなうものは、少なくとも社内にはおりませんでした。あるとき上司の課長が堤会長に呼ばれて企画提案をしたとき、会長から「H君は頭も良くて優秀だけどもっと本を読んだ方がいいね」と言われて席に戻った後、我々に、かなり切れ気味の口調で「月に30万円も本を買う人に(会長)に言われたくないよね!俺の給料分だよ」とぼやいたことをいまでも思い出します。ちなみにH課長は、かなりの読書家で仕事にかこつけて勤務中も読書するような勉強家でした。そごう・西武の現在の林社長は、51年の氷河期入社同期生です。離れたところで彼の健闘を祈ることしかできませんが。
私自身は香港西武へ赴任し、帰国してからは西友に出向しました。和田社長が戻りリストラを始める前の1994年に西武百貨店を退職し、京急百貨店に転職しました。10年後の2004年に京急百貨店を退職したところで私の百貨店人ライフは卒業です。その後は食品スーパーのヤオコー、京急ストアを渡り歩き小売業の勉強をさせてもらいました。今後の百貨店については、知楽会で時間をもらっているのでそちらで話しますが、結論から言うと都心の老舗百貨店と電鉄系はなんとか生き残ると思います。ご一読いただきありがとうございました。
おおむら みつひこ(1157)
(企業支援本部)
(元・西武百貨店、京急百貨店、ISO審査員)