気仙沼の肝っ玉女将たち

メンバーズ・エッセイ
撮影:神永 剛

2023/4/1 (No. 386)
神永 剛
神永 剛

3月11日になると気仙沼での理科実験を思い出さずにはいられません。コロナでこの数年気仙沼での理科実験が出来ていませんが、忘れられない思い出があります。2017年に「理科実験グループ史」に寄稿したものを読み返し、気仙沼の人たちに思いをはせました。


東日本大震災で被害を受けた子供たちを激励しようと始めた気仙沼での理科実験も今年で6年目を迎え、私たちグループの恒例イベントとして定着しました。その気仙沼の復興がこの一、二年目に見えるようになってきたのはうれしいことです。気仙沼での実験教室ではおいしい魚料理とお酒が楽しみです。お昼のレストランを探し、反省会用のお酒を探すうちに、気仙沼の復興を支えた二人の女将に会うことができました。一人は老舗料亭「割烹 世界」女将坂本節子さん、もう一人は「すがとよ酒店」女将菅原文子さんで、この二人は今では気仙沼理科実験遠征に欠くことのできない人になっています。

「割烹 世界」女将坂本節子さん

2013年12月の第四次気仙沼理科実験の折、お昼を食べるところを探していると港の近くにプレハブ造りの南町紫市場という仮設飲食店街を見つけ、そこでお昼を食べることにしました。一階にはラーメン屋などがありましたが、「焼き魚定食1,000円」のメニューにひかれ二階に上がると、そこが「割烹 世界」でした。畳の部屋もありプレハブのお店にしては落ち着いた感じのお店でした。店の中の写真や、お店の方のお話から震災前は気仙沼一の料亭であったことを知りました。その時はそれ以上のお話をすることもなく、午後の実験に向かいました。

割烹 世界

翌2014年7月気仙沼での「サイエンスフェスティバルin唐桑」に合わせ戸田さんと実験実施校との事前打ち合わせの時、二人で「世界」で昼食をとりました。さすが老舗の女将、落ち着いて上品な坂本節子さんは、他の客も少なく、我々も時間があったので、「世界」のこと、震災のことをいろいろ話してくれました。

「割烹 世界は」昭和4年(1929年)に先々代が創業した気仙沼一の老舗料亭で、震災前は壁一面にツタがはう、一見さんにはちょっと敷居が高そうな重厚な感じの建物でした(写真右上写真上)。震災時、地震直後に皆さん裏山に逃げ無事でしたが、建物は津波第一波には耐えたものの、第二波を受けるに至り土ぼこりをあげながら倒壊したとのことです。

震災後、「世界」の被災を知った仙台はじめ多くの町からの「移転しないか」との誘いを断り、店主の坂本健一さんと女将はいち早く気仙沼に残りお店を再建すると誓ったそうです。

復興、再建の第一歩は旧「世界」の跡地を他の飲食店にも提供し共同で仮設飲食店街「南町紫市場」を2011年12月に開設したことでした。我々が感じた落ち着いた店の雰囲気はまさに「仮設でも落ち着ける空間にしたかった」との店主の思いでした。また「気仙沼を元気にしたい」と、1,000円で気軽に食べられるランチも始めたそうです。区画の整理が出来たらできるだけ早くお店を再建したい、一階は入りやすいレストラン形式に、二階はお馴染みさんのためにお座敷に、そして三階は住居と具体的な計画を話す女将の言葉には再建・復興への強い決意が込められていました。

一階は気軽に入れる椅子席のレストラン

それ以降時間が許す限り気仙沼遠征の時は少しでも気仙沼復興の助けになろうとの思いで「世界」で昼食をとることにして、1,000円の焼き魚定食(特にぶり、はまちのカマは格別)をいただき、女将の話を聞くことが慣例になっていました。

気仙沼の復興が進む中、今年5月区画整理が済んだ200mほど離れたところに「世界」が新装開店したという、うれしいニュースが入ってきました。6月に関口さんと理科実験希望校と事前打ち合わせのため気仙沼を訪問したときに早速寄らせてもらいました。

造りは女将から聞いていた通りで、一階は気軽に入れる椅子席のレストラン(写真右上写真上)で、1,000円のランチもありました。お客さんも老舗の「世界」に気軽に入れるということで大好評で、昼時は満席でした。

「割烹世界」の額を掲げた右手の門

「割烹世界」の額を掲げた右手の門(写真左写真上)を入ると玄関で、女将が丁寧に一階奥と二階の座敷を案内してくれました。宴会、会食用の座敷はとても丁寧な作りで落ち着いて、きっと「世界」の長年のお馴染みさんが待ちに待っていたことと思います。割烹の女将として新装開店できたことがとてもうれしいようで10歳ほど若返った感じでした。

女将さん、我々も時間のある限り寄らせてもらいます。お店の繁盛と気仙沼の早期復興をお祈りします。1,000円焼き魚定食はずっと残してくださいね。

「すがとよ酒店」女将菅原文子さん

2013年7月気仙沼のイベントリーダーを守屋さんから仰せつかった私は、遠征の時の反省会をどうしようかと思案していましたが、ホテルの部屋は和室なのでお酒を持ち込んでホテルの部屋で行うことに決め、お酒屋さんを探していました。しばらく探すうちに、フェリーターミナルの北側の津波に襲われた銘酒「男山」本店のすぐ近くにプレハブのお酒屋さんを見つけました。入り口には緑の「酒すがとよ」と書かれた大きな看板がありました。

「割烹世界」の額を掲げた右手の門

お店には地元のお酒がたくさん置いてあり、女将さんが伏見男山(伏見が付きますが気仙沼のお酒)、蒼天伝、水鳥記などを詳しく説明してくれました。お店にはなんと「負けねえぞ 気仙沼」というラベルのお酒までありました。確か蒼天伝と水鳥記だったと思いますが、お酒とおつまみを買ったら「負けねえぞ 気仙沼」という手作りのパンフレット(写真右写真上)をくれました。

パンフレットを後で読んで知ったのですが、お店であった方が写真中央の創業97年「すがとよ酒店」三代目女将菅原文子さんでした。パンフレットのタイトルはお酒のラベルの「負けねえぞ 気仙沼」と同じで、すべて女将の書でした。私たちが行ったお店は震災から1年3ヵ月後の2013年6月にオープンしたばかりだったそうですが、少し北の太田地区には震災からなんと1ヵ月12日後にプレハブとテントで再出発されたそうです。

さらにパンフレットを読み進むと涙なしには読み終われない震災で行方不明になったご主人に宛てた手紙がありました。その一部を紹介します。全文は文末に紹介


「・・・あなたは迎えに行った私と手を取り合った瞬間 すさまじい勢いで波にのまれ私の目の前から消えてしまいました いっ体何処へいってしまいましたか・・・
・・・これからはあなたが必至で守ってきた お店ののれんは私が息子たちと守ります 大丈夫です・・・
・・・何としても帰ってきて下さい 家族みんなで待っています 私はいつものようにお店で待っています 只ただひたすら あなたのお帰りを待っています」 平成23年8月21日


女将は知人にすすめられて、京都の「恋文大賞」にご主人への想いを綴った「あなたへ」と題されたこの手紙を応募、「2011年第2回恋文大賞」を受賞されました。ただ、女将の願いも虚しくご主人は港の近くのお店がオープンした直後の2012年(平成24年)6月に遺体で見つかったそうです。

それから気仙沼に行く度にプレハブの「すがとよ酒店」で反省会のお酒を買うのが理科実験グループの慣例になりました。いいお酒を勧めてくれる女将の言葉からは「お店を再建する」という強い気持ちが伝わってきました。

2017年1月18日小原木小学校で実験教室をした折、伊藤英樹先生から「すがとよ酒店」が鹿折に開店したと聞き早速立寄りました。鹿折はあの大きな船が打ち上げられていたところで、船は撤去され、盛り土、区画整理はされていたものの、お店はほとんどない中、「すがとよ酒店」の蔵造り風の立派な店舗はひと際光っていました。お店の前には港の近くの仮店舗にもあった、津波で唯一残ったという緑の「酒すがとよ」と書かれた大きな看板がありました。女将はお店を守るというご主人への約束を、元の鹿折の地にお店を再建するという形で立派に果たされました。

お店の2階は近所の人たちが集まれるようにとミニホールになっていてグランドピアノも置かれていました

お店の2階は近所の人たちが集まれるようにとミニホールになっていてグランドピアノも置かれていました(写真左写真上)。ご主人が賑やかなことが好きだったので、新酒を楽しむ会を開催したり、ピアノを囲むサロンにしたいとのことでした。気仙沼で毎年理科実験をしているという話をすると興味を持ってくれたので名刺を渡しました。驚いたことに、立春のころに「一ノ蔵立春朝搾り」の4合瓶を送ってくれました。このお酒は私が参加できなかった2月度の定例会後の反省会でメンバーのおなかに消えてしまいました。残念至極。

お店の2階は近所の人たちが集まれるようにとミニホールになっていてグランドピアノも置かれていました

6月には新たに気仙沼担当イベントリーダーになった関口さんと実施校との打ち合わせの合間に「すがとよ酒店」を訪問しきちんとEL引継ぎをしてきました(写真右写真上)。

女将さん、理科実験グループは気仙沼で理科実験をする限り、反省会用お酒は「すがとよ酒店」でいただきますのでよろしくお願いします。お店の繁盛をお祈りします。

(追記)
今でも「一ノ蔵立春朝搾り」を取り寄せ、お世話になった方々にお送りしています

菅原文子さんのご主人への手紙
理科実験グループ史より(2017年8月31日)
以上

かみなが たかし(914)
(理科実験グループ)
(元・ダウケミカル日本)