Bグループ第3回研究会開催 渋沢栄一研究会

2022年9月13日

8月28日日曜日の16時より2時間かけての研究会が開催された。渋沢栄一研究会は第2期、2年目を迎えている。昨年は城山三郎の「雄気堂々」を、今年は守屋淳訳の「現代語訳 論語と算盤」を読書会の形式を取りながら行っている。「より深く自己の内省を含めた自己と社会との関係性の把握」に重心を置いて研鑽を進める方法を取っているBグループ(8名)と、「自己のテーマを持ちつつ、外部への発信を試みる」ことに重心を置いて研鑽を進める方法を取っているAグループ(11名)との二つのグループに分けて2ヵ月に1回の開催日を設けて活動を行っている。8月28日はBグループの開催日であった。以下の報告は研究会座長の濱名個人の見解も入っていて、客観性に疑問符が付くかも知れませんが、研究会の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。

この日の報告者は嘉屋正道さんであった。嘉屋さんは富士銀行OBであり、高砂熱学工業の役員をされた経歴を持たれています。「論語と算盤」の第七章「算盤と権利」を題材としての発表であった。読後感として3点を指摘されていた。①王道「思いやりの道」を歩め、②「競争」には善意と悪意がある、③合理的な経営、であった。嘉屋さんからメンバーへの意見交換の要請の論点は2点であった。一つは「善意の競争、悪意の競争」、二つ目は名経営者を挙げることであった。
嘉屋さんからのリクエストで、「実体験として名経営者と感じた人物のお話を聴ければ有難いと思います」という言葉がメールに記されていた。そのせいもあって、実際に自分が属していた会社の経営者を挙げるメンバーもいて、内容の深いお話が聞けたかとも思いました。

このスタンスと言いますか、雰囲気は昨年から続けてきた同研究会のメンバー間の信頼性が醸成されていて、初めて成り立つ意見交換であったと感じた次第です。今回に限らず、昨年から続いているのですが、ある意味で自分自身の体験の開陳も含まれる訳ですので、改めて参加メンバーの方々の努力に感謝申し上げます。
全員の回答を書けないのは残念ですが、高橋宜治さんからは実際の勤務先であったリクルート創業者の江副浩正社長の情報産業でNO.1を目指すとの合言葉の元に「リクルートブック」や「住宅情報」等の創刊による情報の出し手・受け手の公平性を創出。リボンモデルと言われるビジネスモデルは今も変わらない。また自社の組織活性化は「制度より風土」を合言葉に社員のモチベーションアップの経営を実践し、時価総額10兆円の世界的ビッグカンパニーの礎を築いた点を挙げていました。

子会社のリクルートコスモスの「未公開株券の政治家への配布」問題を引き起こして、引責辞任したという印象が強い方ですが、東京大学生が生んだ最大のベンチャー起業家としてのリクルート社の名経営者ぶりを、元社員の高橋さんから直接聞けたことは新鮮でした。

藤村峯一さんからはブリヂストン創業者の石橋正二郎氏の東京国立近代美術館の寄付*1や地元久留米市の小学校へのプールを寄贈してきたこと。特記すべきことはハードのプールの寄贈に終わらずに、オリンピック選手の教育などソフト面にまで及んでいたことなどの話しが聞けた点でした。これは今日的な企業の社会貢献であり、企業の社会的責任(CSR)を実践してきた名経営者を肌で感じていたということだと思います。
また1952年に無謀と思われる総額で4億5000万円にも及ぶ最新鋭の輸入工作機械購入挑戦*2に対して、本田宗一郎が述べたと言われる「ホンダがつぶれても日本に最新鋭工作機械が残る」と答えたということに感銘したそうです。更にこの二人の共通性に「経営的には独裁者、ワンマンであった」と藤村さんが喝破した点です。名経営者の共通性に「経営は独裁的にして成功する」という趣旨の発言を成し得たのは、やはり1年半に渡ってメンバー同士が本音で意見交換してきたこの研究会のメンバー間相互の「信頼感」の醸成があったからと最近はつくづく感じるところです。

濱名個人を惹きつけた話の内容は、創業者石橋正二郎の長男・石橋幹一郎氏の二代目社長としての、恐らくは「けた外れの人物的な忍耐力」をもってブリヂストンを継承した点です。「創業と守成、いずれが難しいか?」という帝王学の問題でもあります。小生(濱名)が学卒で入社した、当時のエクセレントカンパニーの蝶理株式会社の経営危機(実質倒産)は、二代目社長の経営マインドの失敗(忍耐力の欠如)に最終的には帰着するものと考えています。大企業の経営の失敗がもたらす社員個々人やその家族の挫折感・影響などを、新卒にして肌でたっぷりと感じ取っていた数年間を体験した濱名にとっては、石橋幹一郎氏の二代目社長としての名経営者ぶりは特記すべき話でした。

嘉屋さんからは大阪府堺市に本社を構える株式会社シマノ(東証コード7309)(高級自転車部品で世界首位)で、島野三人兄弟が経営を分担し、世界のシマノに成長させた。三男の島野喜三氏は世界のシマノに飛躍させ、渋沢栄一の「思いやりの道」を歩んだ名経営者だったと語った。二人目はユニチャームの高原慶一郎氏。「感動の経営」で世界のユニチャームに育てた。国際化の経営戦略として富士銀行の国際派エース社員のスカウト人事を実行した事など、実際に嘉屋さんが現役時代に感じたお話でした。三人目は帯広のお菓子屋さん「六花亭製菓」の社員を大切にする、工場や店舗をピカピカに清潔に保つことを実行した経営者として挙げていました。

濱名が挙げた3名は、学卒で入社した当時のエクセレントカンパニー「蝶理さん」(東証コード8014。業界だけでなく、関西の市民からも「さん」付けで呼称されていた)の企業文化と、新卒社員の小生に毎月一回2~3時間の社会人・商社マンとしてのレクチャーを数年に渡り行って頂いた故・木津和四郎元人事本部長(今で言う執行役員)を名経営者として挙げました。二人目は1975年当時の経営危機の蝶理(指名解雇等のリストラ実施を行い、半年間で3000名の社員を2200名に削減)に再建請負で旭化成から派遣された故・篠原良治人事担当常務取締役です。いずれ激しくなる労使関係を見越して旭化成の名経営者・宮崎輝社長が送り込んだ逸材でした。労使関係の最大の危機を、「他人が書き上げたシナリオに100%従って」名演技を実行して、労使間団体交渉を経営側として一人で切り抜けた名経営者でした。「そんな神業みたいなことを一人の人間が成す」ことを目撃体験し得たことは、その後の濱名の人生に多大なる影響を与えました。最後はオリエンタルランド社時代のディズニー・テーマパークの生みの親である、ウォルト・ディズニー氏を挙げました。「自分の思想・哲学と夢」を形としてのディズニーランドとして、アトラクションの建設と人材教育を施して後世に残した「正に子供たちを中心に人々に感動を生み続けた」名経営者でした。

他のメンバーの方々のエピソードは(真瀬さん、永合さん、千崎さん、安倉さん)、次回のBグループの研究会の報告を行う際に披露させて頂きたいと思います。今回は第7章「算盤と権利」を発表者の嘉屋さん自身が取り上げた訳ですが、参加メンバーは改めて第7章を読み返しながら、発表者のリクエストに回答していった訳ですが、恐らくその成果は2時間という限られた研究会だけではなく、各個人に還元されていったものと推測しています。

途中からでは少々ハードルが高いかも知れませんが、渋沢栄一を研究対象としながら、メンバー自身の研鑽をしてみたいと思われるDF会員やその知り合いの人がいらっしゃいましたら当研究会にお越しください。きっと既存の各メンバーが暖かく迎える事でしょう。気軽にドアをノックしてください。

以 上(濱名 均)
  1. 東京国立近代美術館 石橋正二郎評議員より美術館建築の寄附申し入れがあり、その厚意によって、昭和44年(1969年)、千代田区北の丸公園の現在地に、建築家谷口吉郎氏設計による新館が開館しました。
  2. 1952年6月、Hondaは第2次増資を行った。資本金600万円。藤澤は専務取締役に就任した。そして10月、総額で4億5000万円にも及ぶ最新鋭の輸入工作機械購入計画が決定される。