江戸は食のワンダーランド

メンバーズ・エッセイ
撮影:神永 剛

2023/2/16 (No. 383)
三宅 宏
三宅 宏

2009年、来日客の目的の一番が、日本食に変わった。和食が世界遺産に登録されたのも記憶に新しい。和食はもはや世界的ブームから、定番にかわりつつある。その一方、本家日本から旬が失われ、和食を食べなくなってきているのはなんとも皮肉である。

貝原益軒は『養生訓』の中でこう言っている。「諸(もろもろ)の食物、皆新しき生気あるものを物をくらうべし」(巻第三の31)

江戸っ子は旬を大切にした。「初物75日」という諺が示す通り、その年の走り、初物を食べれば75日間長生きすると信じていた。だから「女房を質に入れても初鰹」などという不埒な川柳がよまれたのである。和食の原点に立ち戻り、江戸の庶民の食事をみてみたい。

江戸の初期は、それまで寒村であった一田舎が日本の中心地となる一大土木事業であった。まず水の確保のための上水路と資材と食料を運搬するための堀を縦横にめぐらせた。と同時に高台を崩し東京湾の埋め立てを次々にした。また神田上水や玉川上水も引いた。全国から男衆が集まり土木工事が進み、武士は勿論、職人と商人がどんどん集まった。

だから西部開拓当時のアメリカと同じで、江戸は女性が少ない男社会であった。肉体労働の男が多い初期の江戸では当然塩気の多いしょっぱい味が必要とされたであろう。しかし長屋住まいの庶民の台所は狭く、火口は限られており、ご飯を炊く、汁を温めるなどであった。元禄以前の初期江戸食は、雑穀や玄米を中心とする質素な食事であった。

江戸食に革命をもたらした契機はいろいろ考えられるが次の四つが重要であろう。

一立斎広重《東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図》蔦屋吉蔵. 国立国会図書館デジタルコレクション
一立斎広重《東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図》
蔦屋吉蔵. 国立国会図書館デジタルコレクション

第一が、海と川に囲まれた江戸とその後ろに控える広大な関東平野という恵まれた自然である。春から夏にかけては鰹に代表される黒潮系の魚、秋から冬にかけては鮭に代表される寒流系の魚が南下してくる。あらゆる川湖水では、あゆ、うなぎ、どじょう。春の山菜、夏秋冬の近郊野菜。これらの走りの味をこよなく愛したのである。

次に白米革命である。江戸っ子の自慢のひとつは水道水の産湯と白米である。白米が元禄になると庶民にまで拡がった。白米は美味しいだけでなくおかずとの相性もいい。主食が炊いた白米、それに主菜(魚)、味噌汁、漬物、副菜の野菜やおかず。いわゆる一汁三菜である。

自分の国の将来について

第三にだし革命。日本料理はだしが決め手である。上方は北海道の昆布が北前船で日本海を運ばれてきたアミノ酸文化である。江戸は黒潮に乗った鰹節のイノシン酸文化圏である。この両方を使うと合わせだしといって旨みが倍増する。現在の鰹節が作られるようになったのが江戸時代の初期。カビを付けることによってタンパク質を発酵させ、うまみを増幅させた日本の知恵である。

第四に調味料革命。大豆を発酵させたのが味噌と醤油である。味噌は元々戦の非常食として発達した。だから強い武将の居る土地は旨い味噌がある。醤油は大豆と小麦を発酵させた調味料である。江戸のはじめは何でも京都・大阪の上方からの下りものであった。江戸から逆流するものはくだらないものである。当初は上方流の薄口醤油しかなく、高価な下り醤油であった。江戸の初期の庶民の調味料は手に入りやすい塩と味噌。肉体労働の多かった江戸庶民はしょっぱい味を好んだのであった。ここで登場するのが上方の薄口醤油に対して、江戸好みの濃口醤油である。時代が下ると野田や銚子など関東の地廻り濃口醤油が主流になり、一気に庶民に広がり、江戸食の基本となった。

江戸時代の「蕎麦屋台」 江戸東京博物館の展示より 撮影/小林慎一郎
江戸時代の「蕎麦屋台」
江戸東京博物館の展示より 撮影/小林慎一郎

これと時を同じくして外食産業が花ざかりとなる。江戸のはじめは外食できるお店はまったくなかった。家庭で食べるか、雇われているお屋敷かお店のまかない飯を食べるかであった。しかし次第に天秤棒にしじみ、あさり、塩魚、野菜、漬物、醤油、酢、納豆、豆腐、煮豆、佃煮などをのせた棒手振りの商売が繁盛した。彼らは長屋にまで入り込み、重宝がられた。

一方、外食産業も人口の増大と調味料の発達とともに激増していった。蜀山人の書いた随筆集には『一話一言』には「五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店ならずという事なし」(五歩歩けば店が一軒、十歩歩けば大きな店が一軒、これみな飲食店である)とある。

刮目するのは屋台文化である。濃口醤油の出現によりまず屋台の蕎麦屋が、そして屋台の天麩羅、おでん、寿司屋と江戸時代はファストフードのオンパレードであった。江戸末期には一気に寿司屋台が爆発した。3秒の芸術と言われる握り寿司。江戸前の海で漁れるシラウオ、穴子、ハマグリ、コハダ、海老、マグロの醤油づけ・・・まさにさあ、江戸前の寿司喰いねぇなのだ。それとうなぎ丼も忘れてはならない。醤油と味醂のたれにつけて焼いた蒲焼は江戸食文化の傑作である。これも野田と銚子の濃口醤油と流山の白みりんのおかげでもある。

宵越しの銭をもたない粋で通な江戸っ子。現代を凌ぐ江戸グルメ。まさに江戸は食のワンダーランドなのである。

以上

みやね ひろし(1405)
(キッコーマン)