2022/2/16 (No.359)
秋山 哲
埼玉県ふじみ野市で、訪問診療の医師が患者家族に散弾銃で撃たれて亡くなった。この事件は、私をいたたまれない気持ちに追い込んでいる。
というのは、家内の病気のために、昨年末から年初にかけて、訪問診療、訪問看護のお世話になったばかりだからである。全く知識のなかったこのサービスを受けて、今思っていることは、担当される医師や看護師の方々への感謝である。
在宅療養は、病状的には終末期のことが多いと思う。家内の場合もそうだった。医師や看護師の人たちは、患者の苦痛を和らげ、平安を維持するために、ありふれた言葉かもしれないが、正に献身的に動いてくれる。
我が家のケースでは。看護師さんは、原則として、朝と夕の二回家に来てくれた。体温、酸素濃度などを調べ、痰の吸引や排泄物の処理を行い、歯を磨き、体をぬぐい、手や足のストレッチも時間をかけてやってくれる。パジャマを着せ替え、クッションをいくつも使って楽な体位を作りだす。1回の訪問看護に1時間半をかける。
調子がおかしいと気付いて連絡すると、30分程度ですぐに駆けつけてくれる。多かった日は1日に4回ということもあった。深夜でも来てくれた。
家族は、極端にいえば、することがない。夜間に痰の吸引をするぐらいのことである。
病院に入院してもなかなかこのようにはやってくれないのではないだろうか。来てくれていた看護師の一人は、病院勤務のときは、どうしも効率ということがあって、患者にしてあげたいと思うことが十分にできなかった、それで訪問看護に移った、といっていた。
いろいろな取り組み方があるのかもしれないが、我が家のケースでは、訪問診療のクリニックと訪問看護のグループは別法人であった。しかし、連携は極めてよくできていた。患者に関する情報は日々共有されていた。
訪問診療のクリニックは、通常の外来診察もやっているところだったが、院長と副院長が定期的に診察にくる。しかし、病状が変化すると、いつでも来てくれる。訪問が連日になることもあった。
医師が処方箋を書くと、提携している薬局がすぐに配達してくれる。
この院長は、われわれ家族とよく対話してくれた。ことに、1時間以上も腰を落ちつけて、診療方針についての意見交換をしてくれたことは、終末医療に関する知識のない家族にとってありがたかった。「看取り」への心構えができたことであった。
介護施設のケアーマネージャの関与も行き届いていた。介護申請や医療用ベッドのレンタルなど、極めて段取りよく動いてくれた。
病気の発見から天に召されるまで、40日余というあわただしいことで、家族は心理的に混乱もしていたが、在宅医療のシステムがうまく動いていたことは、どれほど家族の助けになったことか。このようなシステムがかっちりと構成されていること、そのシステムの中で働いている人たちの意識と情熱の高さ。この社会の成熟度を改めて認識したのである。
ふじみ野市の医師も、報道されている限りでは、高い評判の医師だったようだ。患者家族に撃たれたことの無念を思えば、涙せずにはおられない。
終末医療を支える訪問診療、訪問看護は、超高齢社会になりつつある今、多くの家庭にとって他人事ではない。患者本人と家族の死生観が関わるだけに、日ごろから熟慮しておかなければいけないテーマではないだろうか。
以上
あきやま てつ(544)
(元・毎日新聞社)