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一般社団法人 ディレクトフォース

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 2021/09/16(No.349)

妻と共に歩んだ中東の道

ーー パキスタンで学校建設に身を捧げた妻のストーリー

錦織 淳

私が最初に中東世界を訪れたのは昭和の終わり1987年暮れである。私は当時“世界史における文明の転換期”を予感していた。その頃まだベルリンの壁やソ連邦の崩壊もなかった。しかし、1984年12月、中国の「人民日報」に「マルキシズムをそのまま現代に適用するのは誤りである」という趣旨の論文が掲載された。また、当時私の発行していた「だんだんニューズ」という事務所報に、「今、ゴルバチョフのペレストロイカは、ソビエト社会主義の西欧型民主主義に対する、“事実上の敗北宣言”であるともとれる」と書いた。

しかし、マルキシズムと東欧社会主義国家の“敗北”によりライバルを喪った資本主義と西欧型民主主義は歯止めを喪って暴走し、やがて危険水域に達するのではないかと虞れた。私は、若年の頃弁護士として水俣病事件を担当し、資本主義の巨大な胃袋が有限な地球資源を食い潰していく末の悲惨な結末を予測出来たからである。今地球を席巻する西洋(西欧ではない!)文明は、今後いったいどのような運命を辿るのか ーー それを解明するためには、今日の西洋文明はどのようにして誕生したのか ーー その淵源を探る必要があった。そして、西洋文明の源流を遡ると、中東世界の古代文明に辿りつく。

私は、今は亡き妻と相談し、中東世界を訪ねる決意を秘かに固めた。しかし、そのときなんという幸運であろうか!。当時丸紅中近東課(当時は中近東といっていた)の一員としてサウディアラビアに駐在していた段谷芳彦君(現DF会長)より、「錦織くん、自分が居る内にサウディに来ないか」と声をかけて頂いたのである。“渡りに舟”とはこのこと、私はふたつ返事でOKした。そして航空チケットから宿泊ホテルまで何もかも手配して頂いた。

もうひとつの幸運があった。私は、その頃日本への進出を試みていたNational Bank of AbuDhabiの在日準備事務所の法律相談を受けていた。その日本準備事務所代表兼UAE公使であったDr.Romahi氏が急遽帰国し、AbuDhabiに帰っていた。Romahi氏からもUAEに来ないかと誘いを受けたのである。

かくて、私と妻は喜び勇んで中東世界への最初の旅立ちに出発した。もっとも肝心の段谷君が、私達と入れ違いに急遽帰国することになってしまったのは誠に残念であった。代わって同君の紹介で丸紅ドバイ事務所駐在の加賀谷英明氏に、私達夫婦への下へもおかぬおもてなしをして頂いた。

中東世界への旅は、西洋文明の源流の探訪という本来の目的は別にして、まるで夢のように楽しかった。巨大なスークやバザールの雑踏、街中に鳴り響く大音量のコーラン、そして“中東の3P”といわれるペトラペルセポリスパルミラに代表される古代文明遺跡の眼を見張るような素晴らしさ ーー なにもかも新鮮な感動であった。

3Pのような著明な古代文明遺跡やイスタンブールの著名なモスクのみならず、レバノンの(世界最古の?)古代キリスト教教会の神秘さ ーー 私たちは中東世界の独特の奥深さに魅せられていった。

同時にそれは西洋文明の源流とユダヤ教、キリスト教、イスラム教という兄弟関係にある一神教の三大宗教が密接な関連を有することの確認でもあった。

私達は、私が衆議院議員選挙に出馬するまで、何度も中東を訪れた。そして、いつも妻と一緒だった。典型的な“男社会”であるイスラム世界で女性がどのような立場に置かれ、何を考えているか ーー 女性でしか入り込めないその世界に対する妻の目線で見たものは、新鮮であった。イランでは結婚披露宴は男女別々で行われる。そこに参加した妻の見たものは、黒いヘジャブで全身を覆われた女性達の普段の姿とは別もので、色彩豊かな服をまとい、嬉々として歌い踊る彼女達の姿であった。


MINEKO SCHOOL の起工式典で踊る妻(峰子)と学校の先生

妻は、その後パキスタンの北部山岳地帯 ーー カラコルム山脈の麓の村に子供達のための学校を建設することになった。Passuという海抜2500mにある村に、MINEKO SCHOOLという学校を建設した。この世界独特の幾多の困難に阻まれ、学校建設を決意してから10年以上の歳月が経過し、子供達がMINEKO SCHOOLの新設なった校舎に通い始めたときすでに妻は急逝し、この世にいなかった。


寄贈したスクールバスでMINEKO SCHOOLに通う子供達

亡き妻に代わってスピーチをする私

パキスタンは中東ではなく、地政的には南西アジアに属するが、イスラム国家である。妻→友人の駐日シリア大使夫人→Esbel 駐日シリア大使久保田駐シリア大使→久保田大使のパキスタン大使赴任という経緯でパキスタンとの縁が出来た。

妻は、中東世界における各国各地の子供達に触れ心を動かされ、学校建設を決意した。シリアにするかパキスタンにするか、最後まで迷っていた。シリアに建設していたら今ごろどうなっていたであろうか。エンドマーク

にしこおり あつし(1168)
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