サイト内検索 powered by Google

一般社団法人 ディレクトフォース

bt_ホーム
タイトルイメージ

 2018/9/1(No276)

「知られざるわが青春時代のスポーツ秘話」

ーー 東京オリンピックと新興国スポーツ大会

中尾 誠男

私

東京オリンピックを2020年に控えて、DFのメンバーの方々にお伝えしたいと存じ、拙文を見て頂く事とした。

過日、私と一緒に新興国スポーツ大会に出場「フライハイト」に同乗した大学の渡辺先輩が、間質性肺炎という難病で亡くなり、一周忌に葉山の先輩宅に集まった。

奥様が主人の遺品で大事な物と聞いているのでと、アルバムや新興国スポーツ大会の特別パスポート、メダルなどを出して来られた。

(クリック⇒拡大)
写真1(選手村の宿泊所)

新興国スポーツ大会の事は秘話として墓場まで持ってゆくつもりだったが、風化しない内に書かなくてはと思いなおし,筆をとった。また、国会図書館に行き、記憶の確認も行った(写真1)。

この秘話は部分的には当時の新聞に載っている(東京オリンピックへの悪影響を考えて、努めて小さく報道されたが、日刊スポーツは、記者が同行したこともあり、比較的大きく扱っていた。メダルを取った我々ヨットや、柔道、卓球、レスリング等の活躍や選手団の横顔などが報道されている)。

母校芝学園と新興国スポーツ大会

その中でも、母校芝学園所蔵のベルリンオリンピックで使われた日本選手団の幻の国旗が、池田事務長(当時)から新興国スポーツ大会日本選手団、頭山立国(とうやま たつくに)団長に手渡される写真等、が新聞報道された。

当時、母校の校長であった故松本徳明氏は浄土宗の僧籍で、大蔵経(だいぞうきょう)で著名な高楠順次郎師の弟子であり、セイロンで南方仏教研究の権威であった。戦前は、元ドイツ、ボン大学の教授をされていた。

その後、近衛内閣の政策企画を手掛け、報知新聞や大阪時事新報の論説委員をされた。

戦中は、海軍省より委嘱され、東南アジアの民族運動、独立運動を支援する学問的支柱であった。

戦後は、日本科学振興財団の理事長や大正大学の理事長を務められた仏教学者であるが、そのような氏の経歴から、当時、大学紛争が、大学生だけにとどまらず、麻布高校や日比谷高校など高校生までが学生運動で左傾化しつつあった世相であり、仏教系学園である、母校の芝学園の校長に、招かれたのではないかと思う。

松本先生がどんな活動をしておられたか詳細は不明だが、党人派の巨頭、故川島正次郎氏(当時、専修大学理事長、自民党副総裁)と懇意であった事は、新興国スポーツ大会の日本特使が川島氏であり、松本先生がロイヤルボックスのその隣に座れる人物であった事を、私自身、入場行進のスタンドから目のあたりにした。

また新興国スポーツ大会日本選手団の団長は玄洋社、頭山満の孫、頭山立国氏であった。(写真2、3)

(クリック⇒拡大)
写真2 写真3(クマヨラン空港=現スカルノ・ハッタ国際空港内移動)

川島氏や松本先生が、東南アジア独立支援メンバーとかなり親しい付き合いであったことは容易に想像できる。

実際、芝学園には、ダライラマ14世の兄タクチェル・リンポチェがチベットから来日した折は、来校され、我々生徒に講演した。スカルノの盟友、ハッタ副大統領が来日した折も、わざわざ来校され、挨拶された。

松本先生が、チベット独立運動の精神的支援者であった事、インドネシア独立運動でスカルノ、ハッタ氏を応援した結果でなければ、そのような要人が一私学に講演、挨拶に来られる事はまずないであろう。

パールレース

私自身が新興国スポーツ大会に参加することになった経緯は、松屋の故古谷徳兵衛氏所有のネプチューンが当時、日本最長のヨットレースであったパールレース(伊勢志摩真珠島〜油壷)に出艇するため、葉山鐙摺(あぶずり)港から御木本真珠島まで、慶応大学体育会ヨット部OBのネプチューン艇長、菅原先輩より「回航のため」に同乗の誘いがあった事が(結果「回航」だけでなくパールレースに参加することになったが)、そもそもの縁であった。

それも鐙摺で、葉山ヨットクラブの鈴木さんが偶々通りかかった私に、クルーを探している人がいると声をかけてくれた偶然の縁からだった。

ここでちょっと横道にそれるが、このレースで歴史的経験をしたので、そこにも触れておく。御木本真珠島ではネプチューンで寝泊まりし、食事も買い入れた食材で料理して食べる暮らしだった。

食事当番の私は先輩の口に合うものをどうして揃えてよいか、わからず近所の船を訪ね歩いたり、島にあがり、島の人たちの所を訪ねまわった。

どう歩いたか、島の奥まったところに小屋があり、美味しそうな匂いがしていた。そこは海女小屋だった。

我々のヨット、ネプチューンが着岸したとき、錨が絡まり、困った時に、傍で、実演していた海女さんが潜って外してくれるハプニングがあった。

その海女さんが海女小屋の前で何か作業をしていた。

昼のお礼と食事の相談をしようと声をかけた。私1人だったこともあって、警戒されず10人近い海女さんに囲まれ、海女さんの生活を聞いたり、からかわれたり、若い海女さんが隣に座ったことを冷やかされたり、食事をご馳走になり、おかずをお土産にもらって、食当の務めを果たしつつ、ちょっぴり甘ったるい嬉しい経験もあった.

日本最大のヨット海難事故関係者との遭遇

この時、真珠島でネプチューンの隣に、早稲田大学体育会ヨット部のクルーザー「早風」がもやってあった。レース仕様で外に手すりのない流線型の格好良い船だった。

「早風」の食当の下級生と一緒に食器を洗い、慣れていない私に、洗剤を貸してくれた気分の良い男がその後、「早風」とともに日本最大のヨット海難事故で海の藻屑となる運命に合うことになるとは全く思いもつかなかった。

後に新聞の遭難者の写真の中に彼の姿があった時には何とも言えない気持ちだった。

私自身、回航だけの約束でネプチューンに乗ったが、電車で東京に帰るのもつまらないな、と思っていた所、真珠島でレース出場のため、合流することになっていた体育会のメンバーはアーゴノート(体育会所属のクルーザー)の担当1人しか参加できず、急きょ、私もこのレースにも出ることになってしまった。

台風接近中での帆走で、途中で風呂敷ほどの大きさに帆を縛り、メインマストのステーがプツンと音を出した時は、"マストが倒れる”と、菅原艇長も青くなって、タオルを巻いて応急修理をしながら完走するという、とても怖いレースだった。

堀江謙一氏との縁

また、左隣には関西学院大の6年生(留年2年?)が艇長のコンパスローズ2世(煮しめたような黄色いセールを、我々は、ポンコツズロース2世とあだ名をつけた)という粗末なヨットがあった。

随分小さな船で、"よく大阪から回航できましたね“、と皮肉を言うと、むきになって「この船は半分自作艇だ。秘密の話だが、この船の仲間が今ちょうどアメリカに向かって1人で航海している。“塩気*“については関東者には負けない」と口走ったが、その時は秘密の話どころか単なるほら話と思い、忘れていた。

この時の話が数か月後、太平洋1人ぼっちのアメリカに旅立つ堀江健一氏を見送ったばかりの話とわかり2度驚いた。

(塩気*:ヨット仲間の言葉で、「海に慣れている、とか海の上での勇気がある」との意味)

新興国スポーツ大会と逗葉慶應会ヨット部

(その当時は大学生ばかりであったが、石原裕次郎氏も創立期のメンバーであった、石原慎太郎氏の「太陽の季節」のモデルとになったともいわれているヨット草創期に出来た逗子葉山の慶應生のヨットクラブ)

体育会ヨット部OBの菅原先輩が新興国スポーツ大会にかかわったのは頭山立国団長が慶應の同級生だったためで、菅原先輩をはじめ、慶大体育会ヨット部から新興国スポーツ大会に個人の資格という名目で出場依頼があった。

大久保先輩というオリンピック選手を抱えていた慶大体育会ヨット部は扱いに困ったようだ。

FD級の柳沢先輩が体育会ヨット部を退部して、参加、その他のメンバーは逗葉から出してほしいとメンバー選定依頼がネプチューンで親しくなった菅原先輩からマネージャーであった私宛あった。

ここで当時の逗葉の実力について触れると、慶應の中等部や日吉高校の頃から自分の庭のような葉山の海で毎日のように練習しているメンバーのクラブで、大学生になってからヨットを始める体育会ヨット部のメンバーに勝るとも劣らない実力者が多く存在した。女子に至っては慶應大学を体育会に代わり代表していた(ジャーナリストの木村太郎氏夫人等)。

結果として、逗葉からの参加メンバーは、オリンピック選手でもなく除名になっても問題ない?小林先輩、FD級(銀メダル)藤山先輩ドラゴン級、一ノ井先輩ドラゴン級、内藤君ドラゴン級(銅メダル)(石原慎太郎氏コンテッサのクルー)渡辺先輩フライハイト級 中尾フライハイト級(着外)加藤国際審判員の8名となった。

フライハイト級というのはインドネシアの旧宗主国であった、オランダがルーツのガンタがついてトラピーズがありスピンを張る珍しいヨットだった。(写真4、5)

(クリック⇒拡大)
写真4
(フライハイト級 タンジュン・プリオク港で沈没)
写真5
(渡邊先輩と私 フライハイト級)

新興国スポーツ大会事務局に提出したエントリーシートの戦歴が、葉山ベイフリートチャンピオンシップでの優勝が多かったので、果たしてアプルーブされるか不安だったが、インドネシアの新興国大会本部より、インビテーションが発行され、無事全員エントリーされた。

銀メダル1銅メダル1という成果だったが、FD級では当時世界チャンピオンであったブラジリアンツインズに次いでの2位であった。

インドネシアチームと関係の深いアトラクションで出た水上スキーの可愛い娘さんの親が有名なコスゴロー財閥の当主だった(三井物産とミツゴロー計画という三菱商事のビマス計画と並び日本企業との合弁でも有名)。家に招かれ、帰りには、お土産に手に一杯、持っていけるだけ宝石の原石を持って行っていいといわれ、全員もっと欲しかったのに遠慮深く、数個であきらめた思い出がある。

*会社に入り、出張でインドネシアに行く機会があり、再度、コスゴロー家を尋ねたが、飛行機事故で当主はカリマンタン沖にしずんでいた。

また選手村の事務局にいたインドネシアチームのスルヨノハルトノの(愛称ヨーヨー)のお姉さんはオランダ人の母親に似たハーフの美人だった。

後にNASAに勤める事になる加藤先輩が、流調な英語で彼女と会話を交わし親しくなったのが、ロマンスといえばロマンスかもしれないが、そのヨーヨー一家はドクターの父親とアメリカに渡ったと聞かされた。

試合後はわれわれを軍用機でバリ島に運んでくれて、バカンスというご褒美があった。

支給された滞在費も練習と試合の連続で、使う暇やお土産屋も知らず、日本から持ってきたお金も、皆余っていた。(写真6、7)

(クリック⇒拡大)
写真6(会場 - 選手村送迎のバス) 写真7(フライハイト級のレース中)

加えて、インドネシアで価値があると聞いて持ってきた国産の時計、カメラや真珠玉等も利用方法が解らなかった。

私はその頃から商才があったのか、積極的に他の国の選手達と交流し、フイリッピン選手をはじめ、主として東南アジアの、それも中華系の選手と親しくなった。

カメラはワニ革1頭分、時計は高級ジャワ更紗1人分等交換の目安もその選手達が決めてくれた。

選手村で知り合ったインドネシアチームの商売上手な選手数人と盛大な物々交換中心のバザーができた。実家が土産店の選手もおり、その店の出店もあって、試合で活躍できなかった分、ヨットチームのお土産作りには大いに貢献した。

チーム全員の時計やカメラ、ジャージ、選手団のブレザーなどを精力的に、木彫りやジャワ更紗、ワニ革、水牛製品、ジャワクリス、ゴクラクチョウ、コモドトカゲなどの剥製と、交換した(*ワシントン条約前でした)

日本ではそもそも個人資格なので選手団のブレザーも帰りは不要だった。

インドネシアは国賓待遇なのでトランクの中はノータッチ、日本に帰ってきた時も故八田一郎レスリング協会長、後参議院議員等、オリンピック関連の政治家たちが盛大に羽田で出迎えてくれる雰囲気だったのでまったくノータッチだった。

ブレザーもスウェットも帽子も下着以外すべて交換してしまったので、帰りのトランクはもらった貴石もふくめ、すべて土産品、もし税金がかかったらと、皆、学生で無一文で税金の問題を心配したが杞憂だった。

私は父の取引先のジャカルタ支社の方々にご馳走になり、腹を壊して選手村の病院に入院、クロージングセレモニーに出られなかったのが唯一の残念な出来事だった。

もっとも、逗葉からの参加自体は日本を出る時、そう簡単ではなかった。

逗葉創立メンバーの故竹下先輩(元清水建設専務)や故須藤先輩(元住商)からは派遣メンバー全員呼びつけられ相当に怒られ、全員退部して参加した。

主将だった、池田君(コンテッサのクルーでセイリングテクニックが優秀だった)はやむなく残った。マネージャーはサブマネだった折田君(元ワーナージャパン社長)が代わってくれた。レースで使った、ドラゴンのセールや賞品でもらったガルーダの木彫りなどは帰国後ヨットクラブに寄贈した。

新興国スポーツ大会参加は結果は良しで終わり(後述のように、東京オリンピック成功のための参加だったから当然の結果ではあったが)、1年後東京オリンピックに派遣されてきたインドネシアヨット選手団に、「君達はどうして出られないのだ」と聞かれ、ガネフォー(新興国スポーツ大会の略)参加の一同、何とも返事が出来ない恥ずかしい思いをした。

その後、残留した幹部の骨折りによって、参加者全員、部に復帰し、同時にアマチュア資格が復活した。

故川島正次郎氏が卓球協会やレスリング協会の会長であった事と、東京オリンピック担当大臣であった事、故八田一郎氏(後、参議院議員)が柔道、レスリング、卓球はそれぞれオリンピック級の選手を出した。

陸連に遠慮した陸上は2選級の選手で参加、完走することに意義があるというメンバーで、マラソンなども完走したが着外だった。

新興国スポーツ大会は前年ジャカルタで開かれたアジア大会でインドネシアがイスラエルと台湾を、招致しなかった事に端を発した。

国際陸連や国際重量挙げ連盟が、アジア大会を正式国際大会と認めないとなった事にスカルノ大統領が反発、IOCを脱退し、当時IOCには入っていなかった中華人民共和国やアラブ諸国を誘って反オリンピックの大会を開き、アラブ諸国など12か国が東京オリンピックをボイコットしようと言う動きが有ったためだった。

川島正次郎東京オリンピック担当大臣は新興国スポーツ大会に日本では個人資格で参加する形をとって、IOCに顔を立て、インドネシアでは国の代表としてスカルノ大統領への顔を立て、逆に新興国スポーツ大会参加の51か国2、700人の東京オリンピックへの招致を成功させたのだった。

石油でお世話になっているアラブ諸国も本音は東京オリンピックへの参加という気持、があった、結果と思う。

因みに、ソ連はオリンピックとの両立を考え1.5流を新興国スポーツ大会へ中国はオリンピック未加盟だったので一流選手を送り、卓球や陸上競技などで多くの金メダルをとっていた。

日本は荻原選手など有名選手が参加していたが中国には及ばなかった。(写真8、9)

(クリック⇒拡大)
写真8(フライハイト級 練習風景)
写真9(新興国スポーツ大会 日本選手団)

もし中国がオリンピックに加盟したら相当な強敵になるのではないかと当時思ったが、今その通りになっている。

尚、頭山満の玄洋社は西郷隆盛の系譜を継ぐ尊皇攘夷、八紘一宇、といった精神で造られた結社であり、大アジア民権主義、その系譜につながる人物には印度のチャンドラボースや中国の孫文、チベット独立運動、インドネシアのスカルノ、ハッタ革命、台湾独立、ウイグル独立、フイリッピンやベトナムの独立運動家にも大きな支援をしていたアジアの民主化独立運動の支援者集団だった。

川島正次郎氏も後援者であり、松本徳明先生も後援者であったことは新興国スポーツ大会のキーマンであるスカルノ大統領に直接話せる関係であったことからもは容易に想像できる。

大東亜戦争でこの思想が軍によって日本のアジア侵略の手段に利用されたというのが戦後の評価であったため、玄洋社が右翼の巨頭のような扱いであった事で、氏らが表立って動けなかった所以であろう。

結果はご承知の通り、インドネシアを含め新興国スポーツ大会参加の殆ど全ての国が東京オリンピックに参加し東京オリンピックが大成功になった事である。

政治、外交というのはこういうことなのかと今になって思う。

オリンピックと政治

オリンピックもアマチュア主義からロシアや中国の国家権威の発揚のためのステートアマの台頭や、ドーピングを国家ぐるみで行う等政治的な面で使われる事がしばしばある。

そもそも、オリンピックはギリシャにおいて小国(アテネ、トロイ、スパルタが有名)が戦争で決着をつけるのでなく、スポーツで決着をつけようというところから、始まっているのであるから当然の部分もあると思う。

新興国スポーツ大会に持っていった日章旗も、ヒトラーが国威発揚に大いに利用したベルリンオリンピックの時の日本選手団の旗であった。

戦後になって戦前の価値観が180度変わった折に、ベルリンオリンピックそのものもヒトラーの縁のある大会であるとして、その旗までも歴史の中に埋もれる事に耐えられなかった松本先生達が密かに保管していたものと思う。

しばしば、歴史は勝者の側の書いたものということが言われるが、新興国スポーツ大会も中国など当時の未加盟国がオリンピックに参加する過程にあった。歴史の中の一コマであったと思う。

東京オリンピック2020との縁

現在、日中友好協会の顧問を拝命しているが,前職の三菱油化、化成の創業者が山形県の酒田市の出身で、山形出身の加藤紘一氏を後援する会での、ご縁があったためである。

加藤氏は平山郁夫氏が会長であった日中友好協会の会長を引き継いでおられた。

日中友好協会はピンポン外交や、大相撲の北京巡業の実現等スポーツ交流には力をいれてきた。オリンピック誘致の会からは日中友好協会に中国にオリンピック東京を支持してもらうように働きかけてほしいという希望があった。

東京オリンピック誘致という国益に沿うものであり、日中友好に意味があると、故加藤紘一会長を先頭に日中友好協会では全面バックアップした。

日本は大差で東京オリンピック誘致を勝ち取った。この勝因の一つに中国が賛成してくれたことがあると思う。

この事は日本と中国が微妙な関係にあるため、あまり報じられていないが、両国の微妙な関係の陰にさりげなく応援してくれた中国に、感謝したい。

一流アスリートでもない私が、オリンピックに縁があると、不思議な因縁を感じる。

オリンピックが平和の祭典といわれるのは戦争回避の手段であったからであり、紛争中の国家間では平和実現のために、政治が必要なようにオリンピックも例外ではないと思う。エンドマーク

なかおまさお ディレクトフォース会員(679)
元三菱油化・三菱化学エンジニアリング・なとり 

一般社団法人 ディレクトフォース 〒105-0004 東京都 港区新橋1丁目16番4りそな新橋ビル7F

e-mail : info@directforce.org | Phone : 03-6693-8020 | (C) 2011 DIRECTFORCE

アクセスマップ