2016/11/16(No233)
横山 英樹
私は2001年から5年間ローマに駐在していました。写真はフォロロマーノの夜景です。客人を食事のあと夜の市内へ案内するのですが、ローマは昼より夜景が美しいと喜ばれました。特にフォロロマーノの夜景は感動もので、毎週のように行っていました。
フォロロマーノの夜景 |
ローマというと“いいですねー”という反応になるのですが、現実は仕事も生活も大変で、なんでも日本のイメージの2倍の手間と時間を掛ける覚悟が必要です。しかし“イタリア流”に慣れると日々の混乱も心地よくなる人も多いようです。単身赴任で、週末はローマ市内の “トモコさんのレストラン” TUDINIで過ごしていました。
トモコさんは銀行勤め、幼稚園の先生を経て、あこがれのイタリアに単身渡り、小さいレストラン店主のガブリエレさんと出会って結婚、夫婦で店を4倍の大きさにしました。ご主人は8年前に亡くなりましたが、ローマ定住の日本人女性からローマのお母さんと慕われ、最近日本のテレビにも登場しました。
ローマのレストランには流しの歌手が来て、追い返す店もありますが、当時のTUDINIではご主人のガブリエレさんのポリシーで自由に出入りさせていました。沢山来る流しの大半はちょっと怪しい感じですが、その中の1人、エンツォだけはトモコさんも特別扱いでした。歌は全て自作の自称“詩人”で毎週末来て、私のために“ヨコヤマの歌”を即興で歌ってくれたりしました。ところが、2004年9月からエンツォがぱったり来なくなりました。トモコさんと、どうしただろうね?と話していたところ、店のカメリエレ(ボーイ)が「エンツォは死んだよ」というのです。
彼の話はこうでした。店はローマ中央駅近くですが、エンツォの家はローマ郊外で、中央駅まで近郊列車で来ていたそうです。ローマ中央駅はホームがほぼ地面レベルの低さで、列車に乗るには車両の階段を上るようになります。その日の夜、終電が出ようとしていたとき、エンツォは動き出した列車に乗ろうとして足を滑らし、車輪の下に入って即死したとのこと。あたりは血まみれ、救急車や警察が来て大変だったそうです。事故の2日前に、家内と娘が来ていたのでエンツォと撮った写真です。この写真のすぐあとに命を落としたと聞いて、大変ショックを受けました(写真左から私、エンツォ、娘、家内) 。
(左から)私 エンツォ 娘 家内 |
それから1ヶ月後、事務所に居たとき携帯電話が鳴りました。表示を見ると“エンツォ”と出ていたので、鳥肌が立ちました。電話番号を交換していたのをすっかり忘れていたのです。恐る恐る出てみると、女性がイタリア語で何か話しています。あわてて秘書に携帯を渡すと、しばらく話して切ってから説明してくれました。
女性はエンツォの奥さんで、携帯に私の番号が有ったのでエンツォが死んだことを連絡するために電話をくれたということでした。私はとっさに、奥さんにお香典を渡したいと思い、秘書に相談したところ、絶対だめだというのです。イタリア人にとって、流しの連中はドロボーも兼業しかねないというイメージがあって、個人的に接触するのは危険ということでした。それでも思いが残ったのでトモコさんに相談したところ「店に呼び出して、私も一緒に会えば大丈夫」と、自らエンツォの奥さんに電話をして約束をとりつけてくれました。数日後、店にやって来たのは奥さんではなく、娘さんでした(写真中央がエンツォの娘さん、左はトモコさん、右は家内) 。
中央がエンツォの娘さん 左はトモコさん 右は家内 |
彼女は会社の秘書が心配するような人物とは正反対、ローマ大学で美術、デザインを学ぶ学生で、きれいな英語を話すインテリでした。エンツォと奥さんは演劇仲間で、奥さんは演劇衣装の制作で生計を立てているということでした。私がお香典を渡そうとしたところ、現金だと知って、これは受け取れない、ということでしたが、トモコさんが“日本の習慣だからいいのよ”とイタリア語で説得し、受け取ってもらいました。
この話はこれで終わりです。娘さんのその後はわかりませんが、きっと結婚して子供も居るだろうと思います。もしエンツォがいたら、孫を溺愛し、詩と歌を沢山作ったことでしょう。イタリア人は初対面の人にもオープンですが、あるところから先は壁をつくって距離を置く傾向もあります。しかし、その壁を超える出来事があると、そこから先は家族同然のオープンな付き合いが始まるという感じがします。ローマでは素晴らしい景色も沢山見ましたが、今思い出すのは人との付き合いのことばかりです。
アリベデルチ ローマ!
よこやま ひでき デイレクトフォース会員(1143)元ブリヂストン