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 2016/03/01(No216)

英国の生い立ちとアングロ・サクソン

野村 裕晟

筆者1.西ヨーロッパの先住民族

今を遡る事2500年程前に地中海の北側、ライン川の西側の広い西ヨーロッパ一帯(現在のスイス、フランス、ベルギ―で後日、古代ローマにガリアと呼ばれる)に「ケルト人(Celt)」と呼ばれる人達が多くの部族に分かれて住んでいました。彼らは定住し、高い農業技術で広大で肥沃な土地を利用することができました。特に鉄器の扱いに優れ、犂と草刈り機等を発明し、主に農業を中心とする営みだった様です。更に彼らは籠を編み、壺に油を塗ったり(油の保存)、パンを焼いたりする他、木材加工にも優れ、日常生活上の工夫が数多く残されています。

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犂をひく牛で深く土を耕した

当時の人々の信仰は自然と関係を持つ神々で、狩猟の神、森の神、川の神の他、商人・旅人の守護神とされる「メルクリウス像」も広く敬われた神でケルト人は周りのあらゆる物に尊崇の念を持っていた様です。

2.古代ローマ(共和政)の台頭

やがてローマを発祥地とする共和政ローマは数百年の間に徐々にイタリア半島を制圧し、カルタゴとのポエニ戦争(紀元前264年〜前146年の3次に亘る死闘で、特に第2次のカルタゴの将ハンニバルが有名)に勝利した後、ローマは更に強大となり、カエサル(Julius Caesar=紀元前100年〜紀元前44年)の軍はガリアで激戦を重ねながらも確実に勝利を収めました。そして遂に紀元前51年、ガリアでの組織的抵抗は完全に終わり、ガロ・ローマ時代(Gallo−Roma)が始まりました。

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ルービコン川岸の
シーザー像と私
南フランスにある上水道橋
ポンデュガール

その後のガリア(ローマの3つの属州になる)におけるローマの政治経済面での手腕は素晴らしく、ケルト人(ガリア人)との融和を進める一方、法治、治安維持、優れた建築(円形闘技場、水道橋、道路の建設等の石材建造技術)の伝播、通商の振興、農業(ワイン等)の育成、芸術の支援等、この地域の発展の基盤作りが進められました。

ガリアでは今日のパリ(Paris)はルテティア(Lutetia)とよばれ、ケルト人部族パリシー族の拠点でしたが、後日、その名に因みパリと命名されました。

3.古代ローマとイギリス(英国)

古代のケルト人の伝統(文化や言語等)が色濃く残っている大西洋に面したフランス西部のブルターニュ地方(Bretagne)では古来より、大西洋の向うにはブルターニュ地方より大きなブルターニュ(Great Britain の語源)がある事を知っていました。そして、海を渡ったケルト人をブリトン人(Briton)と呼びます。彼らは主にイギリス南部(イングランド)に居住し、スコットランドやウエールズ、アイルランド地方のケルト系の人達とは競合/共存する形でした。

紀元前55年、シーザーがドーバー海峡を渡りイギリスに侵攻します。更にその翌年にもシーザーは再度侵攻してきます。そして100年に亘る断続的な攻防の末にローマは北部のスコットランドを除くイングランドのほぼ全てを征服します。シーザーの名言「来た、見た、勝った」がこの地でも実現しました。

「イギリスの文明はシーザーが海峡を渡った時に始まった」と2000年後、チャーチル首相は述べたと言われています。多くの歴史学者が「できる事ならシーザーに会ってみたかった」という様に西洋の歴史に大きな足跡を残したシーザーは才能も人的魅力も巨大だったと言えるのでしょう。(ローマは紀元前27年、共和政から事実上帝政に移行。初代皇帝はアウグストウス)

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ハドリアヌスの長城
皇帝ハドリアヌス即位時のローマ帝国版図
ローマ統治時代のイギリス

ローマがイギリスに侵攻した当時、ロンドンという町は未だ存在しておらず小さな集落がテムズ川沿いに有るだけでした。紀元43年にクラディウス帝がこの地を訪れるや、先ずロンドン(Londinium =「テムズ川沿いに住む人」が語源)で大陸との水上交易の為の港・波止場を建設、居住地(セツルメント = ほぼ今日の金融街シティーの場所)を構築、テムズ川に橋を架け(現在のロンドンブリッジの位置で、当時は今日より川幅が広かった)川を挟んだ南北の通商を促し、ローマ街道と呼ばれる道を充実させ、物流と軍隊の迅速な展開に備えました。また防衛の為、現在のシティーの一角に砦を築きましたが、この跡は「ロンドン歴史博物館」の地下に現存しています。

その後もイギリス(ローマ人は Britannia と呼んだ)は発展を続けます。

ローマ五賢帝の1人ハドリアヌス帝が即位し、紀元122年にブリタニアを視察、北方のケルト系部族(ピクト人、スコット人等)の攻勢からの防衛強化の為、スコットランドとの境界に東西100kmに及ぶ長城を構築する事を決定します。

これが有名な「ハドリアヌスの長城」で(Hadrian's Wall)全ローマ帝国領の最北端の国境線となりました。

4.ローマの衰退とアングロ・サクソンの登場

時代は流れ、広大なローマ帝国を1人の皇帝では統治する事が困難となりました。紀元330年にコンスタンチノポリス(現イスタンブール)が建設され、紀元395年にローマ帝国は東西に分裂します。この頃になると、カスピ海北方から侵入したフン族等(アジア系騎馬民族)がライン川の東側に居住するゲルマン系諸部族を圧迫し、食糧危機を起こします。これが引き金となり定住を望んでいたゲルマン系諸部族(当時は非定住)のローマ帝国内への大移動が始まります。しかし、衰退したローマ帝国には既に大移動を阻止する力が無く、ライン川西側のガロ・ローマ地域の勢力図は一変、西ローマ帝国は紀元476年の滅亡に向かって傾斜していく事になります。

紀元409−410年、ブリタニアに駐屯するローマ軍は異民族の侵入から本国を防衛する為、全軍が撤退しました。しかし、ローマは撤退後の政治的な空白を埋める為、ゲルマン系部族を傭兵として起用します。この中でアングル族(Angle = 今のデンマーク)とサクソン族(Saxon = 現ハンブルグ)が登場しますが、彼らは傭兵として、或いは移民として、或いは略奪者としての顔を持っていました。英語では Anglo−Saxon と記します。

アングロ・サクソンと呼ばれるゲルマン系部族のうち Saxon 人はハンブルグ地域に大きな勢力を構えたままで一部の Saxon 人がブリタニアに渡りました。

アングロ・サクソンの原意は Angle 人の国に住む Saxon 人という事の様です。

イギリス(England)の事をフランス語では Angleterre と呼びます(アングル人の国という意味です)。一方ドイツ語では Grossbritannien と呼び Great Britain が原型となっています。英語は古代ゲルマン語がベースと言われていますが、多くのラテン語(ローマ、フランス)由来の言葉も含むミックスです。

ローマがブリタニアを撤退した紀元410年以降、アングロ・サクソン人が主流となりますが、文化的なレベルはローマとは比較にならない程低く、しっかりした記録や記念すべき遺跡等も殆どありません。彼らは文字を持たなかったと言われています。そしてそれは1066年フランスから侵攻したノルマンディー公ウイリアム(征服王)にイングランド王のハロルドが決定的な敗北をした年(The decisive year)まで続きます。この600年余りをイギリス人は暗黒の時代(The darker age)と呼んでいます。

ヨーロッパの歴史において「中世」とは凡そ紀元500年から1500年までを指します。「英仏100年戦争」や「ばら戦争」を経てアングロ・サクソン人が世界に雄飛するのは1600年以降の女王エリザベス一世の時代からとなり、まだかなり先の事になります。エンドマーク

のむらひろあき ディレクトフォース会員(997)元 味の素

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