2013/09/01(No156)
山田 光彦
アフリカ大陸の東方海上に横たわる世界第四の巨大な島国マダガスカルは、原猿と云われているキツネザルに代表される固有の動植物の宝庫である事が良く識られている。他方、日本海軍と浅からぬ因縁が有ることは殆ど知られていない。
日露戦争の雌雄を決めた日本海海戦で壊滅されたロシア・バルチック艦隊は、マダガスカル北部の港に2ヶ月余りも停泊する事を余儀なくされた間に灼熱の暑さに馴れない兵員が疲弊して戦意が衰えたばかりか、藤壺が船底にこびりついてその後の船足を遅くさせ、日英同盟下で日本に間接的な支援を与えていた英国の差し金で軍艦のマストが白く塗られ煤煙の多い石炭を入れられ遠くからでも識別され易い状態にされた。いわば対馬海峡に現れた時のバルチック艦隊はマダガスカル足止めで戦力を殺がれていたと云われている。
第2次世界大戦中のドイツと日本との連絡が双方の潜水艦同士のマダガスカル沖での邂逅によって行われていた史実は、吉村昭が「深海の使者」(文春文庫)で詳述している。
「特潜四勇士」の慰霊碑前で |
更に、同島最北端デイエゴスワレス港は、日本海軍が太平洋戦争中に攻撃した最遠の地であった。1942年4月15日に呉を出航してペナン経由マダガスカル沿海部に到達した伊20、16に搭載された特殊潜航艇2隻は5月30日に港内停泊中の英戦艦ラミリーズを魚雷攻撃で大破、タンカーを撃沈した。当時ナチスドイツに協力的なヴィシー仏政権のマダガスカル植民地の軍港は英軍に接収され英海軍基地となっていた。当初攻撃は仏軍の反撃と早合点した英軍は首都アンタナナリヴォの仏軍を空爆した程に日本海軍の攻撃は予想外であった。日本からかくも遠く離れたマダガスカルで英戦艦が魚雷で大破された報に接したチャーチル首相は驚愕したと回顧録で述べている。当時の日本海軍は攻撃隊員4名を収容帰還させる作戦であり、潜水艦2隻が港外で待機していた。しかし特潜艇1隻は爆沈され、もう1隻は帰投中港の入り口で座礁した結果全員帰還は果たせず、 掴座した秋枝中佐、竹本少尉は荒波を2km泳いで上陸した3日後に軍刀、拳銃で英軍と陸上戦闘し戦死した。英軍には6名の戦傷者が出た。
小生は、マダガスカルでニッケル・コバルトの鉱山から金属精錬までの開発投資を責任者としてF/S段階から工場建設完工迄の6年間従事していた経緯より足繁く現地に通っていた。同国への最大の投資者として常時10数名の日本人を派遣していた代表として「特潜四勇士」の慰霊に訪れたいと思っていた。2011年11月に念願かなって、海中に眠っている特殊潜航艇を間近に拝める事ができ、慰霊碑を清掃、参拝する事ができた。当日海が凪いで艇を見られ献花できたのは幸運であった。秋枝中佐、岩瀬大尉、竹本少尉、高田兵曹長の冥福を祈り国家への献身に感謝するため、秋枝中佐の出身地山口の銘酒 "だっさい" と昆布、するめを英霊に供える事ができた。慰霊碑は日本を望むべく北東に向けて港頭を見下ろす岬の突端に1997年建立されたが、訪れる人少なく雑草に覆われていた。
大戦果を挙げたとはいえ帰還できずに、遠い南の島で果てた4戦士の無念さに想いを寄せて参拝者皆で "海行かば" "ふるさと" を歌った。マダガスカルの海と空は何処までも蒼かった。
やまだみつひこ ディレクトフォース会員(No969)元住友商事