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(2016年2月18日掲載 )

第159回 講演・交流会(2016年1月 例会)講師

テーマ:「南極観測 Q and A」

講 師:渋谷 和雄氏(1075)

(編集註:この講演会レポートは、講師の渋谷さんご自身がまとめられたものです。ご講演と併せ深く感謝申し上げます)

◇ ◇ ◇

Q1:何度も越冬した人がいるそうですが、やることがそんなにあるのですか?

Q2:どういう人が隊長になるのですか?

(画像クリック⇒拡大 以下同じ)
資料 p2 隊次と隊長名

A1、A2上記2つのQに対するAは関連がある。私の所属していた極地研究所では数回、越冬するのが自明であった。というのは、極地研は研究機関というだけでなく、南極観測を運営する主体であり、教員、特に教授は、いずれは隊長を務めることになる。やることがあるなしに関わらず、いきなり隊長をやれるはずもないので、数回越冬することになるわけである。資料 p2のように、3〜4回目の越冬が隊長職である例が多い。

赤字は私が隊員だった時の隊次と隊長名、緑字は私が隊長を務めた39次隊員で、後に越冬隊長を務めたものである。

口頭で説明した通り隊長のタイプには2通りある。

  1. 小規模登山隊リーダー型。
  2. 中堅あるい古参隊員のバランスの上に乗る神輿型。

両者ともに一長一短がある。

Q3:隊長の一番の役割は何ですか?

Q4:隊長と艦長ではどちらが偉いのですか?

杉山隆男のルポ「兵士に聞け」で明らかな通り、リーダーの長所、短所は大体早い段階に隊員に見透かされるものである。隊員は隊長のことを、「保身・自分の利益に走るのではないか?自分たち隊員の利益を守ってくれるだろうか?」と常に考えていると思って良い。従って、隊員に不安感を抱かせないこと、今この瞬間の判断に疑いを抱かせず、その場その場で最善を尽くしているという信頼を勝ち得ることが最大の役割と言える。

Q3、Q4について私の一番の試練は

病気の「第38次越冬隊員を早期に帰国させる」ため、「南極観測本部」から、「しらせ」航路とスケジュールの大幅変更がフリーマントル入港直前に突然、通知されたことへの対応であった。

  • 航路変更について形だけの了承を求められOKはしたが、病人が誰で病状に現地でどう対応しているか、第39次隊が用意すべきことは何かの詳細はすぐには判らなかった。
  • 本部とは言え、実態は研究所首脳部数人、文部省の担当管理官の合議であり、第39次隊への影響を極力抑えようという観点はない。病人を早期に帰国させるため、昭和基地に直行せよと言うばかりであった。これは第39次隊には大問題で、「本来、やるべく準備した野外調査地に行かれなくなったり」「日程が短縮され予備日の全くない計画になったり」「あてにしていた作業支援が得られなくなったり」した。一方、「殆ど悪影響なくやれるグループもあり」、隊員間の嫉妬、疑心暗鬼を生んだ。
  • そこで、夏隊長は「しらせ」に残り野外調査のヘリプランの組み換えを担当する」「越冬隊長は早期に基地に入り、第38次隊との交渉、第39次隊夏作業の調整、基地輸送に関しての夏隊長からの問い合わせに関して最終判断を行う」、と役割分担を明確にした。計画の組み換え、徹底に出港後3-4日間を要し、一応の治まりを、出港10日後の昭和基地到着直前に得たことで、最大の危機を乗り切るとともに、一応、一番の役割を果たせた。
  • Q4について言うと、「しらせ艦長」は船の総責任者。しかし、艦長は横須賀総監部、防衛庁(南極観測支援室)の指示に従う。また、乗船中、観測隊は「しらせ」艦長の指揮に従うのが原則である。
  • 「しらせ」は輸送支援が最大の任務なので、不測の事態があっても予定輸送計画を100%やりきるのを美徳とする伝統があり、野外観測支援は後回しになりがちである。隊長は観測隊の総責任者ではあるが、観測隊自体は様々な形態の利益グループの集まりで、「しらせ」のような命令系統で動く組織ではない。純粋に「最大多数の最大不幸回避」を目指す以外になかった。
  • 南極統合推進本部が「観測隊」に、防衛庁が「しらせ」に個別に言って来る内容が互いに見えず、また、見せろとも言い辛い点が最初はあったが、観測隊側が持ちかけて両者を突き合わせ、行動計画再編において疑心暗鬼を生まない様にできたのが危機を乗り切れた最大の要因と言える。
    資料 p3 資料 p4 資料 p5

資料 p3.(左)「しらせ」艦長、一等海佐・帖佐正和、(中)第39次観測隊・隊長兼越冬隊長、渋谷和雄(右)第39次観測隊・副隊長兼夏隊長、森脇喜一

資料 p4.フリーマントル停泊中の「しらせ」。

資料 p5.予定された緑色の「しらせ」航路は水色に変更になった。出港後、数字赤丸の順のように昭和基地〜ケープタウン往復とトナー島〜昭和基地往復が追加され、複雑な航路・日程になった。

資料 p6 資料 p7 資料p8

資料 p6.トナー島グループが一番影響を被った。トナー島に建設予定の小屋(写真は極地研での仮組み後)と野外地質調査リーダー。

資料 p7.高層大気採取グループはワンチャンスに賭けることになり、海氷上に落下した測器(画面奥の銀色の容器でcryogenicsamplerと呼ばれる)の回収は「しらせ」が離岸する⑨の2月15日直前になった。回収成功は幸運と飛行士・稲垣米蔵三佐の眼と勘の良さに尽きる。

資料p8.第二居住棟のぎりぎりの完成もケープタウンから戻った「しらせ」運用科の協力に依存する点が多かった。

Q5:女性で越冬した人はいますか?

Q6:女性隊員越冬で特有の苦労はありましたか?

別表のように第39次隊の2名越冬が最初である。最初と言うこともあり、文科省(当時は文部省)は記者会見を設定した。この日を迎えるまでに各人、出身元の大学等でそれなりに場数を踏んで来たようで、堂々とした受け答えであった(記者クラブ制度のもとでは、熱心に取材せずとも一応、横並びの記事が書けるので、記者が鋭い質問することはまずない)。

越冬中、帰国後の評判から「女性隊員越冬」は一応、成功と評価されているので、以後は、当たり前のように女性越冬隊員が出ていて、第54次隊までに25名いる。私に関して言うと、女性隊員が居るからといって、さしたる苦労はなかった。

但し事前の布石は打った。2人には「言い争いや、仲の悪い様子は他の隊員には決して見せないこと」と、強く申し渡した。男の隊員が二派に分かれて女性隊員を核として対立すると、問題を引き起こしやすいからである。同じ分野・専門の場合、特に注意が必要であるが、幸い一方は基地中心で夜勤も多く、もう一方は野外観測が多くて日勤中心という違いがあり、2人のキャラクターも異なっていたので、心配することはなかった。

但し、想定を越えた事態として、越冬開始に当って、2人がタグを組んで、個室LAN経由でPC通信させろ、と強く主張してたじろいだが、いやな予感がしたので、個室でのメール使用は断固、禁止した(LANを引かせなかった)。男性隊員で同調するのもいて、数週間ぎくしゃくしたが、観測棟や観測棟公室では使用できるので、特に問題が大きくなることはなく、収束した。

資料 p9 資料 p10

資料 p9.出発前の記者会見のもよう。1997年11月。

資料 p10.39次〜54次参加女性隊員の内訳。当日資料を簡略化したものである。

Q7:越冬できなかった(取りやめた)人がいましたか?

A7:「難聴」を理由に、越冬を嫌がった機械隊員が1人いた。1997年7月から、極地研に寝泊まりして、各種訓練に出向いていたが、8月半ば位から兆候が出たと言う。1997年12月、現地での夏作業中に悪化し、日本の出身母体とも連絡を取って帰りたいと訴えた。難聴は医者にも判りにくい病気で、真相は不明である。他の機械隊員で手分けして仕事はこなせるので支障ないと設営主任も賛成したので第39次夏隊とともに帰国させた。以前にも例があったので、思い悩むこともなかった。

Q8:その他の難しい判断を迫られる事態がありましたか?

  1. アスベスト処理に関して、隊員間に見かけの利害相反があった。
    現在ではアスベストの危険性は知れ渡っているが、当時は限られた関係者しか知らなかった模様で、私も認識が甘かった。環境保全隊員・設営主任は任務とされていることもあって処理実行を主張、医者は中止を主張して対立し、全体会議にかけた。
    マニュアル規程では取り扱い資格者が必要とされていたが、39次隊員に有資格者はいなかった。また、密閉・閉鎖空間での処理が必須とされたが、その準備はなかった。医者の言いたては大げさと言う雰囲気が仕事を依頼した極地研側にあったと思う。というのは、第37次隊でも医者・担当者の根深い対立になったと聞いた覚えがあったからである。
    しかし、建設省(当時)出身の機械隊員が「旧通路の解体は決死の思いでやった」と言い、中皮腫になる隊員が出たら南極観測は立ち行かなくなると医療隊員が再度主張したので、隊長判断で中止を決定した。日本とは相談せず、中止通知のみとした。
    これには後日談があり、今から5〜6年前、本来、アスベストに触れる機会はなかったと思われる古い隊次の隊員に「中皮腫の疑いあり」の判定が出て、極地研首脳部が慌てたことがあった。幸い、疑い以上にはならなかったようだが、潜在期間が長いので気が抜けない。
  2. 海氷が安定せず、7月まで海氷上での行動に制限があった。ロースト・ポジションもあった。
    初めての隊員、過去に越冬経験のある隊員であっても、海氷行動の怖さを知っている隊員は少ない。割合気軽に、氷縁まで行こうとする。私は過去2回ともに、海氷の薄い時期に越冬しているので、氷盤が割れて取り残される怖さは良く知っている。3月―5月は仕事の無いはずの海氷上に降りないよう注意した。念押しとして、もし、取り残されても二重遭難させるつもりはないから救助隊は出さない、と宣言した。
    7月に氷盤も安定期に入り、やれやれと思ったら、雪上車2台チームのロースト・ポジションがあった。早い段階に無線誘導で基地へ戻すことができたが、次の2つが言える。(i)事故例集での教訓にも関わらず、隊員は同じような間違いをおかす。(ii)越冬経験者も当てにならない。
  3. 越冬明けの12月〜1月、天候が安定せず、曇天あるいは雪交じりの、風速10m/s前後の日が続いた。廃棄物の持ち帰り輸送には2台のクレーンを使って橇積みするが、風速11m/sを越えるとクレーン操作は危険になる。作業続行が中断か、気象棟、クレーン手、雪上車運転手兼橇積み作業員との連絡調整により、これは隊長が判断すべき事項であり、絶えず綱渡りであった。
資料 p11 資料 12

資料 p11.アスベスト処理は直前に中止した。それらしい装備に見えるが、規程からするとこけおどしに過ぎない。

資料 12.オングル海峡の開水面が昭和基地のあるオングル島(画面下の露岩)に迫っている。画面奥の島は「岩島」と言って、この島が開水面で囲まれたことはまだない。画面奥は大陸斜面である。

資料 p13 資料 p14

資料 p13.ホワイトアウトになるとシュプールが追えなくなる。この頃、雪上車行動用のGPSは持っておらず、またあったとしても頼りきりにはできない。落ち着いて次の行動が判断できれば良いが、さほど簡単ではない。

資料 p14.廃棄物は大半が重量物であり、ヘリ輸送はできない。短距離(1〜2km)とはいえ、雪上車で橇輸送する。クレーンを使った橇積み付けは、ひとつ間違うと大事故になる。

Q9:隊長は越冬中、自分の研究をやるのですか?

A9:自分の研究をやってはいけないという規程はない。しかし、南極での研究・観測は現地作業を伴うのが普通で、1人ではまず無理である、しかし隊長が隊員を自分の研究に使い始めると、線引きが難しく、何をやっても自分の利益優先と取られる恐れがある。私は現地作業を伴う研究テーマは持たないことにした。

Q10:もう一度越冬、あるいは隊長をしたいと思いましたか?

A10:隊長がその後、一隊員で参加した例はある。オブザーバーで参加した者もいる。

しかし、私はもう十分だと思った。隊員には楽しい越冬だったと思うが、小さな怪我が絶えなかった。急性アルコール中毒患者も出た。もしかしたら後遺症が残る一歩手前という怪我もあった。事故例集に7-8件(多い方である)の事例を提供している。大事に至らず、越冬を終えたが、率直に言って、「運が良かった」だけかもしれない。
私にとっては観光旅行で行く場所ではない。

以上

  • 渋谷 和雄氏(DF会員1075、元国立極地研究所教授、南極越冬隊長):
    昭和53年 1月 東大大学院理学系研究科地球物理学博士課程修了理学博士
    昭和53年10月 国立極地研究所研究系助手
    昭和60年11月 同研究所研究系助教授
    平成 6年12月 同研究所研究系教授
    平成22年 3月 同研究所を定年退職
  • 昭和55年2月〜56年1月、第21次隊・昭和基地・地球物理定常・越冬隊員
  • 昭和62年2月〜63年1月、第28次隊・あすか基地・雪氷地学・越冬隊員(あすか基地初越冬)
  • 平成10年2月〜11年1月、第39次隊隊長兼越冬隊長・昭和基地越冬