ホームへボタン DFロゴ
アーカイブ目次

2011/04/16(No99)

東京の鬼門

小宮山直子

小宮山直子氏 黒々とした社殿の奥に向かって、仄かな灯りの中を長い廊下が続く。白い袴を着けた神職が、箱のような物を恭しく捧げ持ち、廊下の先を横切っては消えて行く。その廊下を這うように、重く、静かな波動が流れ出てきた。ちょうど秒針の進みと速度を同じくするくらいに波打つその波動は、社殿を前にする者の背後へと消えて行く。まるで何者かをねじ伏せんとする強大な力を持っているかのようであった。

この社殿を訪れたのは、もうかれこれ4年くらい前になるだろうか。浅草に、かつて江戸の「鬼門封じ」とされた神社があると夫から聞いて、二人して出かけた。堂々たる浅草寺の右手、まるで浅草寺に遠慮するかのように一歩引いて、一見質素な神社が位置する。これが浅草神社である。参道から狛犬の間を抜け、仄暗い社殿に向かい手を合わせた。その時、社殿の奥から、微かな波動が伝わってきたのである。徐々に波動を捉える感覚が増していく。その波動は社殿を溢れ、参道を渡り、おそらくは東京の街へと流れ出していった。

浅草神社江戸の鬼門封じと言えば、寛永寺が名高い。しかし、実はこの浅草神社こそが真の鬼門封じであったという説がある。当時の戦において、敵の鬼門封じを破壊する「鬼門破り」は重要な戦術の一つであったとか。江戸を守るため、徳川家は敵の目を寛永寺に引きつけ、欺くことで、鬼門破りを免れようとしたとも考えられる。そうであれば、浅草神社がいかにも目立たない風情なのも納得できる。そして、あの果てしなく重い波動を思うと、「鬼門封じ」や「鬼門破り」にも何かしら真実味があるように感じられる。

古来、日本人は大地の気を敏感に感じ取ることのできる民族であったと言われている。「鬼門」は中国由来の考え方ではあるが、それもまた、日本人は独自の実感を伴って自らの中に取り入れていたのではなかろうか。戦前・戦後にわたっての欧米に追いつけ追い越せで、日本人は本来持っていた幾多のものを失ったように思えてならない。もちろん、往時に戻ることが良い訳ではなく、戻ることが出来る訳でもない。それでもなお、日本人の本来持っていたものを見直し、心の奥底に眠る感覚に目を開いてみるのも悪くないのではないかと思う。

こみやまなおこ ディレクトフォース会員・元(株)KPMG FAS
(2月20日投稿)

→ 目次へ