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2011/11/01(No112)

「子規と漱石」

小瀧 徹

筆者の写真NHK年末大河ドラマ「坂の上の雲」放映で全国区の知識となったことだが、正岡子規と夏目漱石は非常に親しい友人であった。小説家漱石は俳人子規の指導のもと、かなり俳句にはまっていて、特に、漱石が英語教師として松山に赴任しているときの下宿先(漱石の俳号から愚陀佛庵と称した)の2階に病気療養の子規が50日ほど居候し、多くの句会を催したことはよく知られている。本名夏目金之助の筆名、漱石も子規の俳号の一つからとられた。

子規はその生涯で実に多くの俳号を持った。実際によく使われたものは墓誌にある子規、獺祭屋書屋主人、竹ノ里人などだが、その他に走兎、漱石、丈鬼、獺祭魚夫、野暮流、盗花、浮世夢之助、色身情仏、面読斎(めんどくさい)、猿楽坊主など百余り、中には野球というものもある。当時子規らは日本に入ってきたばかりのベースボールに熱中しており、子規の幼名である升(のぼる)から野ボール(球)で、これをして子規が野球の命名者という説もある。

ところで    

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

は子規の有名な句だが、これによく似た漱石の句があることをご存じだろうか?

「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」

両方とも当時の愛媛県の地方紙である海南新聞(現愛媛新聞)に載った句であり、子規句は明治28年11月8日、漱石句は同年9月6日掲載だから、明らかに漱石の句が前にある。その状況は次のようなものであったらしい。

先ず漱石は句を上述愚陀佛庵滞在中の子規に見せ、影響力のある子規の紹介で海南新聞に載せてもらった。次に子規は漱石から旅費として10円くらいの借金をして東京に帰ることとなったが、帰路奈良に立ち寄り東大寺やら法隆寺やら名所を見物し美味い物を食っているうちにその金を使い果たしてしまう(このことは漱石の妻、夏目鏡子述『漱石の思い出』に書いてある)。となれば、面白いではないか。子規は東京に帰ったあと、漱石の句を下敷きにした件の句を海南新聞に載せ、

「柿くへば(奈良で遊べば)鐘(金)が鳴る(出ていく)なり法隆寺」

と紙上で漱石に頭を掻きながら弁解している気がしてならないのである。

 

「奈良なれや雨に色増す柿紅葉」  徹矢

こだきとおる ディレクトフォース会員、元財務省
俳句同好会世話役、俳号小滝徹矢、俳人協会会員