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 2019/10/01(No.302)

「60才の青春」

 ーー 男のロマンを求めて走りぬく ーー

早乙女 立雄

筆者

青春とは人生のある時期を言うのではなく、心の様相を言うのだ』サミュエル・ウルマン。この詩では、失せること無き創造力・逞しき意志と情熱・勇猛心や冒険心等を常に胸に抱き続けている限り、16才であろうと60才であろうと青春には変わりはないのだと。

【学生時代の青い夢】

話は約50年前の学生時代に遡る。当時3C時代で、マイカーを持ってる人はそんなに多くはなかった。そんな環境の中、約20名の一橋大学自動車部の部員の1人として、ポンコツに見える部車を走らせて日本全国遠征旅行に参加したこともあった。

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受験雑誌の表紙になった自動車部
(右から2人目が私)

大先輩の石原慎太郎氏が当時の自動車部員を引き連れて、南米大陸横断遠征を成功させた記録を発見。それに影響されたのか、自分達も学生時代の内に海外遠征を試みたいと思うようになった。そして、まだ見たこともないオーストラリア大陸を走破する企画を立てた。1年間の準備期間と研修・体力作り等を条件に、大学公認の公式部活動として、「オーストラリア遠征隊」が編成された。豪州からの留学生ブルースパイパー氏にもアドバイスをもらい、毎週しっかりと勉強会を行ってきた。自動車・燃料・輸送手段・宿泊などの手配は、先輩OB達のお陰でほぼ整ってきた。隊員の心は既にオーストラリアへ飛んでいた。ほとんどの準備が完了し、出発まであと1か月余りに迫ったある日、状況が一変してしまったのである。

【折角の夢もはかなく崩れ去った】

当時ベトナム戦争の影響で、全国的に学生運動と学園紛争が激化していた。東大安田講堂事件をはじめ、各大学にも飛び火し、ついに一橋の学園にも火の手が上がってしまった。校舎は占拠され学校封鎖。そのような背景の中、遠征計画は極めて厳しいものになり、ついにOB会長が「諸君、本当に残念だが断念しようではないか!」と、声を詰まらせながら苦渋の決断を下した。我々隊員にとってはやりきれない気持ちで、ただじっと歯を食いしばり涙を呑むしかなかったのである。

【それから40年、還暦も間近か】

熱かった青春時代は瞬く間に過ぎ去り、間もなく還暦を迎える年代になってしまった。

その間、学生の時に遠征計画の中心的な存在であった2人が、若くしてこの世を去った。1人はハワイアンバンドで陽気なT君。交通事故に巻き込まれた。もう1人は東レに就職したE君。海外勤務から帰国するや、両親と妻子を残しての突然死。

当時の自動車部のメンバーも、卒業以来バラバラになったものの夫々の人生を過ごしてきた。その後、数名が時々集まるようになった。顔を合せると誰からともなく、学生時代の不発に終わった例の話題がつい口に出てしまうのであった。互いに酒を飲み交わしながら『何かをやり残したような気がする』『心に空白が残っているような気分だ』『学生時代の夢をもう一度!』『還暦の記念に昔の仲間でオーストラリア大陸を走れたらな~』『エアーズロックの頂上で真っ赤な夕日を見たいな~』。

40年経っても、還暦を迎えようとする男達の心の底には、一つの共通した想いがひたひたと流れていたのである。還暦記念に、全員で揃って何かをしようではないか、との方向に全員の胸の内が傾いていったのは自然の流れだったのかも知れない。

【60才の熱き情熱‥‥再度の挑戦】

昭和45・46年卒業の者約7名が中心になり、約1年後に、我々だけで企画し、我々の手でオーストラリア遠征を実現しようではないかと、話はまとまった。各々役割分担して準備に取りかかった。必要車輌台数・現地マップと走行道路・宿泊施設・現地との対応等の準備を進めると同時に、隊員お揃いのブレザーとユニフォームとしてのブルゾンとポロシャツ等を注文した。

年齢的には我々とほぼ同じはずのブルースパイパー氏は、今はどうしているだろう? できれば40年ぶりに再会したいな~。隊員の一人が検索したが、同姓同名が多くて非常にてこづった。プールの底に落ちてる一本の針を探す様なものだった。しかし、ついに奇跡的に見つかった。「それは私です!」。彼はシドニーの郊外に日本人のご夫人と娘さんに囲まれて元気に暮らしていた。40年前に別れた時、運命的な再会が訪れようとは誰も想像し得なかった。更に嬉しいことには、彼が今回の遠征隊に一緒に参加したいとの申し出があった。全員が諸手を上げて喜んだのは言うまでもない。彼との友情の絆は、まだはっきりと残っていたのである。

今は亡きT君とE君、それに涙ながらに「残念だが断念しよう」と決断した元OB会長のご自宅に訪れ、夫々遺影をお借りしてきた。仏壇にはユニフォームを捧げ、「これを着て一緒にオーストラリアに行こうぜ」と語りかけてきた。元OB会長の令夫人からは『ぜひ夫を遠征に連れて行って下さい。そうでないと天国に行った時しかられる』と。

【感動の連続・大陸南北縦断 6,200kmの旅】

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ダーウィンからシドニーまでの概略ルート
大陸横断道路のスチュアート・ハイウェイをひたすら南下

2008年11月初旬、延11名の隊員がトヨタ・ランドクルーザー等3台に分乗し、めったに信号に出くわさない直線道路を、時速120km位の速さで、約2週間の日程をかけて走り続けた。最北端の街ダーウインをスタートし、そこから南下しながら、エアーズロックを経由し、アデレードメルボルン等の都市を訪問しつつ、最終地点シドニーには予定通り、無事に到着することが出来た。道路は日本と同じ左側通行・右ハンドルなので運転し易かった。しかし、1人で約2時間走行しても周りの風景はほとんど変化なしで、砂漠状態のところもあった。

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旅への期待を膨らませ 隊員10名(当日)が勢揃い(左から4番目が私)

【ウルルの頂上で“千の風”が吹く!】

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ブルースパイパー氏と40年ぶりに再会

オーストラリア大陸のへそと言われているエアーズロックは、先住民族アボロジニの聖地であり、ウルルと呼ばれている。高さ348mの饅頭型の一枚岩で、柵も階段もなく自然のままである。雨や風の日は登山禁止になる。毎年数名が転落事故で死亡しているそうだ。早朝青空のもと、リックサックに水とタオルと、それに遺影と日章旗を入れて、軍手をはめて登山に挑戦した。全員が一斉に登り始めたが、途中退却者が続出し、最終的には4人だけが残った。4人の中の自分は急な斜面のチェーンにへばり付きながら、必死になって約2時間をかけて頂上付近にたどり着くことができた。その時急に空が暗くなり、写真を撮ろうとしたが立っていられない程の強風が吹いてきたのには驚いた。しかし、遺影の3人が「俺達もここに来ているぞ」と話しかけてきたのではないかとふと思った。3人なので “3千の風” を肌にはっきりと感じた。

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ウルルの頂上で突然吹き出した強風の中で日章旗を必死に掲げた

【60才の男のロマン】

最終ゴールに3台の車が到着した瞬間、60才前後のおじさん達は全員肩を組んで輪になり、まるで少年のようにいつまでもはしゃぎ回っていた。真っ黒に日焼けした顔は、ほこりと汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。エンドマーク

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