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 2018/9/16(No277)

「イラク・イラン戦争に遭遇して」

ーー わが現役時代の戦争体験 ーー

金井 勇司

1980年9月22日深夜、突然、灯火管制が敷かれバグダード市街が真っ暗になりました。数日前に日本から出張で来ていた私にとっては、こんな経験は初めてで、何が起きたのかさっぱり分からなかったのですが、翌朝から、バグダード市街は、激しい空爆に見舞われ、結果的には、8年間に及ぶイラク・イラン戦争が始まった日に遭遇したことになりました。当時、私は41歳、丸紅株式会社の海外施設第二課長でした。

イラク・イラン国境で小競り合いが慢性的にあると言った程度の情報は得ておりましたが、日本政府からの注意勧告などは全く無く、何度となくイラクに渡航していた私にとっては、まさに青天の霹靂、わけも分からず本当に心の底から驚かされた出来事でした。

翌朝5時頃からバグダード市内に空襲警報が鳴り響き、轟音と共に空爆が始まりました。地上からは、対空ミサイル等がガンガン打ち上げられ、そのかけらが降ってくるのか、宿舎の屋根がガサガサと音を立てていました。ラジオ放送などアラビックで分からず、大変不安でしたが、空襲警報が鳴り止んだ隙に、あたふたとバグダード支店へ駆けこみ、イランとの戦争が勃発したことを知りました。

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スキーが趣味で毎年欠かさず出かけています
(2018年3月 DFスキー同好会の仲間たちと蔵王スキー場にて 右から3番目が私)

昼夜を問わず、イランからファントムが飛来します。夜は、曳光弾が打ち上げられ、夜空は花火が打ち上げられたように明るくなります。大変恐ろしい光景です。ファントムが頭上に来た時に、突然、「ゴォー」という物凄い音がして、反射的に机の下などへ伏せますが、超音速機のため、音が聞こえた時は、ファントムは遥か遠くへ行っていることになります。

慣れて来ると、空襲警報が鳴ってから「4分半」で空爆が始まることが分かって来ました。150km離れたイランとの国境にセンサーがあり、ファントムの侵入を感知すると、バグダードで空襲警報が鳴る仕組みだと理解しました。少し落ち着いてからの話ですが、この「4分半」は生死を分けます。空襲警報が鳴ったら、とにかく、「4分半」で行けて出来るだけ大きなビルに走り込みました。そのビルの1階にたたずんでいれば、空爆されても、大丈夫だと言うことを身体で覚えました。

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1978年4月28日、短期工業大学6校の契約調印式(左から4人目が私)

毎日、5〜6機のファントムがやって来て、長さ60cmの爆弾をばら撒いて、さっと引き揚げます。時には、ファントムは打ち落とされ、運悪く、墜落したところに家があれば、家ごと吹っ飛んでいました。

毎日、10名くらい(過小発表?)の市民の死亡が発表されていましたので、バグダードの人口500万人として、死亡確率は50万分の1となり、旅客機が落ちる確率(25万分の1?)より小さく、確率的には安全とも言える訳です。従って、「何とか大丈夫」と言うべきか、「危険だ」と言うべきか、人により判断が違います。役職が上の人からは、「何とかなる。駐在員も落ち着いている」と言った報告が本社へ送られていましたが、若い人ほど、「早く帰国させろ。会社を辞めても良い」と真剣で、精神的にも落ち込んでいました。

私が、東京の課長として、担当していた工事現場は、北から南までで28カ所あり、7800名くらいの人が建設工事に従事していました。

イランからファントムが飛来すると、地対空ミサイルでないと当たりっこないのに、イラク兵が、空に向かって射撃します。その砲弾が、放物線を描いて、工事現場に落ちてきます。ものすごい数です。ファントムの60cm砲弾の当たる確率は50万分の1ですが、イラク兵が打ち上げた砲弾の方が、当たる確率が大きく、よっぽど恐ろしいです。

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1990.09月~10月 イラク側が打ち上げた砲弾
(41歳頃の私)
バグダードで仕事仲間と共に
(左から2人目が私)

さて、生命の危険に晒された場合、皆さんはどうなると思いますか。体験しないとなかなか理解出来ないことだと思います。先ず、会社での上司・部下の関係は微妙になります。生命の安全が前提で、会社から給料を貰って働いていることを考えれば当然のことなのですが、例えば、東京から「あれやれ、これやれ」と指示が来たりすると、平常時なら何ともない指示でも大騒ぎなりました。「お前がイラクに来てやれよ」と。

契約上の上下関係も変わって来ます。元請は下請に対し、ある意味で、絶対的な立場ですが、この絶対的立場は、生命の安全が前提にある訳です。更には、外国人労務者です。当時、日本のゼネコンは、フィリピン、インド、中国、タイ等の国々から労働者を直庸で連れて来ていましたが、彼らの帰属する大使館からの指示が契約上の指示より優先されるのかどうか難しい場面がありました。例えば、フィリピン大使館より、フィリピン労務者に対して、帰国勧告が出された場合、フィリピン労務者は大使館の指示に従うべきか、契約上の雇用主の指示に従うべきか、また、この場合、帰国のための航空運賃等はどちらが負担するかの問題も起こりました。

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英雄と馬鹿とは紙一重と良く言います。9月30日、少し戦況が落ち着いたので、バグダードから600km離れたバスラにいるS課員をバグダードへ連れ戻す必要性を課長として私は感じ、会社の運転手にバスラまで行くように要請しましたが、どの運転手も「バスラは危険だ」とか「私には家族がいる」とか言って尻込みしていました。幸い、独身の運転手に無理を言って、バスラに行くことになったのですが、「Mr. Kanai は、Crazy だ」と批判されました。

ところが、無事、S課員を連れてバグダードに戻った時は、「Brave man」に変っていました。もし、負傷・死亡事故でも起こしていれば、「やっぱり、Crazy だった」と言われるところでした。バスラには夜着いたのですが、この夜は、空爆に見舞われ、大きな着弾音が数十メートル先に聞こえたように感じました。バスラの場合は、「4分半」の原則は成り立たず、国境が近くなので、空爆が始まってから、空襲警報が鳴ると言った恐ろしさがありました。

◇ ◇ ◇

ちなみに、バスラでは、最近日本で騒がれている「記録的な猛暑」など、日常茶飯的に起こっており、時には55℃くらいになっているのではないかと思われます。50℃を超えると、公官庁・学校は法律で休みになるようで、気象庁の公式発表は、いつも50℃止まりです。バスラは、気温ばかりでなく、湿度も高く、時には100%になり、前が数メートルしか見えなくなることが有ります。

前置きが長くなりましたが、私は2002年8月、ジャーナリストのE女史の案内役として、バスラへ同行したことがあります。そこで、気温50℃以上、湿度100%に出くわしました。E女史は、「よくこんなところで人間が沢山住んでいるものですね」と言われたので、私は、「だからイスラム教徒は、来世を信じているのです。現世を我慢すれば、素晴らしい来世がある」と。宗教に無知な私が、知ったかぶりで話したことをE女史は、「そうなんでしょうね。こんなところに住んでいるからイスラム教が広まるのでしょうね」と妙に納得していました。E女史は、「News23」の故筑紫哲也キャスターの依頼で、パパ・ブッシュの湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の影響の調査で、バスラを訪れたものでした(これは、現役時代の話しではありません。その折の取材写真はこちらをご覧ください。戦車の墓場さながらです)

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この日はE女史の誕生日(2002.8)で、夕食時、
突然イラク情報省からバースディケーキが届けられ、驚きの誕生日会となった

◇ ◇ ◇

私は、入社以来、殆どインフラを担当していた関係から、身に危険を感じる地域での仕事が中心でした。例えば、1971年、ラオスのナムグム・ダムに発電機を納入した当時は、ビエンチャン政府とパテトラオが内戦状態でした。ビエンチャンからダム現場まで40kmに3か所検問所があり、政府側兵士とは言え、ライフルを突き付けられると気分の良いものではありません。

イラクなどで、要人とアポを取ると、迎えに来た車の後部座席にライフルを持った護衛が座っており、Office に着くと、要人の部屋まで、迷路のようなところを案内され、此処で殺されたら、不明者扱いになるのだと、思ったものです。恐ろしいですが、恐ろしいなどと言っていたら仕事にならないと、運命論者的な心境に何度かなった経験があります。

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