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 2018/5/16(No269)

「和敬塾・わが学生時代」

野村 俊彦

私

机の引き出しに1本の鍵がある。南京錠を開閉するような長さ8cmの棒状の至極単純な鍵である。上部に「G3 7」と刻印してあるので3階7号室の鍵だ。この鍵こそが、私が学生時代を過ごした「和敬塾」という学生寮の旧部屋の鍵である。この鍵を見ると1961年から約3年半の想い出がふつふつと湧いてくる。

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学生時代を過ごした
和敬塾」の旧部屋の鍵

JR目白駅から学習院を右に見て、目白通りを椿山荘へ向かって徒歩約15分。途中、日本女子大学、元総理田中角栄邸を過ぎて直ぐ、見落としそうな石の門構えに銅板張りの看板「和敬塾」に着く。隣は講談社オーナー・野間邸に続いて椿山荘。

ノーベル賞候補の村上春樹氏の小説「蛍」「ノルウエイの森」に和敬塾と思われる寮が登場して、有名になった。実際、彼は和敬塾に1年近く在塾していた。

「蛍」には《寮は見晴らしの良い文京区の高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえたっている。樹齢は150年、あるいはもっと経っているかもしれない。根元に立って上を見上げると、空はその緑の枝にすっぽりと覆い隠されてしまう。》とある。

 

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銅板張りの看板「和敬塾」 「和敬塾」全景(和敬塾入塾案内より) 創設者前川喜作氏像の前で

旧細川侯爵邸の屋敷跡(約7000坪)が寮の敷地全体となっており、学生が生活するには環境は抜群だ。門から直進約200mの植え込みの中に、創設者前川喜作氏(和敬塾卒業生は塾父と呼ぶ:前川製作所創業者)の像が立ち、その奥に和敬塾本館・旧細川侯爵下屋敷(東京都有形文化財)が建っている。前川喜作氏が私財を投げ打って設立後、60年超経過、卒塾生5千人を超え、官界、実業界、学界、マスコミ、画家、音楽指揮者など多くの人財を輩出している。

入塾時のテストで「水」と云う題の作文と面接があり、私は首尾よく合格した。

何故、和敬塾を選んだかは、未だ不明。男兄弟4人(次男)で育ち、浪人時に1人、東京都内で生活し、大学生活は目が届く寮が良いと親が見つけたのではと思っている。

何よりも、早稲田大学へ徒歩10分で通学できることがベストであった。

入寮した時は、西・南・北の4階建て3棟あり、私は西寮に入った。寮の部屋は原則として、1,2年生が2人部屋、3,4年生が1人部屋。2人部屋は「蛍」にあるように、《6畳間を縦にのばしたような細長い形‥‥ 家具は極端なくらい簡潔で‥‥机と椅子が2つずつ、2段ベッド、ロッカーが2つ、作り付けの棚がある。》

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1,2年生当時の2人部屋 頭髪がフサフサだった当時の私

最初の相棒は、香川県丸亀出身のいかにも育ちの良い同大学の男。現在、彼は丸亀に帰り、メールのやり取り、思い出したように会ったりして今も旧交を暖めている。

同期入塾者は約40名、中途入退塾者あり、現在の塾友会名簿ベースは同期37名。

2年生では、福岡県鞍手出身の建設業オーナーの息子。青山学院の文系だが父親の建設業を継ぐとして元気で純粋な心意気のある男と一緒になった。麻雀が好きで、盲パイを得意としていた。彼は、大学卒業後、決められた通り、父親経営の会社へ就職した。業績は順調に推移していたが、残念ながら糖尿病から鬼籍に入ってしまった。

当時、時代は安保闘争後で同期の中にも、「左翼」系?の者も居て、私も彼らの部屋で毎日のように夜明けまで、議論したことを想い出す。彼らの中には部屋に帰って来なくなり、ついには退塾した者も居た。今、どうしているのかなあ?と思う。

西寮には1年生〜4年生まで約150名が生活。1年生は、まず先輩の部屋へ入塾の挨拶に行く。大学名、出身校、家族など紹介し「よろしく」と云うことだ。

高校先輩、大学同学部先輩も居て何となく嬉しくなったことを想い出す。でも、体育会系カルチャーそのもので縦社会の付き合い。ともかく、名前と顔を早く覚え、朝晩の挨拶を怠らないように心がける。ある同期が挨拶を怠ったのか何かで、日頃の態度が悪いとして、先輩に屋上に呼び出され、強烈な説諭を受けたことがあったと聞いた。

寮のイベントで、体育祭、塾祭には1年生は文句なく下働きのため、朝早くから駆り出され準備に取りかかる。体育祭の種目は20以上あり寮対抗戦である。

とりわけ騎馬戦がすさまじく上半身裸の闘い。ひっかき傷は当たり前だが、何故かお互いに友情が湧く。早朝からたたき起こされ参加したソフトボール大会では、先輩から激励受けるも、高校時代に軟式経験投手のボールが打てず仕舞いに試合終了。悔しい中に流石と低頭だが、西寮のみならず、他の寮の先輩、同期の者とも熱い交流が始まる。

当時、約450人の学生が居住しており、まさに労働力の宝庫。沢山のアルバイト求人がさまざまのルートで持ち込まれた。夏休みに某デパート内清掃、某レストランのボーイ、輸入品の試食アンケート、選挙時のTV手伝い、英語雑誌の翻訳などなど、大いに助かった。

和敬塾には立派な講堂があり、創設者・前川喜作氏の定例講演はじめ、著名な文化人、実業人ら各界の方々の講演会があり有意義な時間を過ごした。ただ、聴講は学生服着用が義務で何となく違和感を感じたものだが‥‥。今、講堂の前の廊下に当時の講演者から寄せられた「揮毫」の色紙が所狭しと並んでいる。

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講演者から寄せられた「揮毫」の色紙 著名人の名前が所狭しと並んでいる

塾祭では、西寮で上下関係なく「うわばみ座」なる劇団を作り、その講堂にて歌舞伎まがいの芝居やコントを上演し、拍手喝采を浴びた。

寮毎に行われる「旅行会」も楽しみのひとつであった。いつも怖い先輩諸氏もこの旅行会では本当にやさしいお兄さんである。20歳を迎えた時など、お酒をうんとご馳走になった。

ようやく3年生になり個室へ移った時、一人前になったような気分でささやかながら喜んだものだ。さあゆっくり自分の時間が持てるかと思いきや、入れ替わり立ち代わり、先輩、同輩、後輩が来室し社会情勢を議論したり、他愛ない恋愛話や、空腹を癒す即席ラーメンを分け合ったりして、わが布団はぺちゃんこになったままだ。

そんな中、文集「蜂の巣」を復刊しようと皆から原稿を集めて第一号を発刊した。

今、読むと、純粋で若さ溢れる文章に心打たれ、懐かしさがこみ上げる。

当時、スタンフォード大学の留学生が在塾しており、彼らと食堂で食事をしたり、風呂では、「入浴の方法」など、「カタコト」で教えたりして仲良くなった。スキーシーズンには志賀高原に連れて行き、みんなで転んだり滑ったり、楽しい日々だった。

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セピア色となった当時の計画書と新聞の紹介記事

そんな中、先輩・同輩数人と世界を見たいと「世界の学生寮調査隊」を作り、世界旅行計画が持ち上がった。最初は飲んだ勢いで楽しげに実現出来たらいいなあと云う事で、声高らかにエイエイオーと気勢を上げた。
しかし、物見遊山で終わらないよう、まず塾の前川喜作理事長はじめ塾関係者の意見を聞いて回った。結論は、自分たちの責任の問題ということになり、いよいよ計画は動き出した。

残念ながら、私他2,3名が途中、計画から降りたが、大森駅近くの八百屋さんの2階を借りてより具体的に訪問先の選定、資金作り等々計画を前に進めた。

結果、6名参加で、1年後に実現した。隊の先輩らとは、今もお会いして酒を酌み交わしながら世界旅行の話に花を咲かせているが、元気一杯だった先輩の一人が数年前、病に倒れて帰らぬ人になった。これは、私の和敬塾在塾一番の想い出である(今もセピア色の当時の計画書が手元にある)。

ビックリした出来事もあった。

東京6大学野球・早慶戦で早稲田が久しぶりに優勝した時の話。

早稲田1年先輩で大変酒が強いご仁が、優勝の美酒に酔い門限に遅れて西寮の玄関から入室不可となり、建物の端の雨樋をよじ登り3階の部屋へ入るため幅50cm位の庇の上を歩いている途中、足を滑らせ地面に落ちた。救急車を呼んで手当を急いだが、運よく植え込みに落ちて無傷で帰寮した。このご仁は、囲碁が滅法強く囲碁で生計立てるほど。今も、お元気で八丈島と東京半々にて暮らしておられ、飲めば必ずこの話で盛り上がる。

 

多くの和敬塾生が大変お世話になった忘れられない女将が居た。

田中角栄邸の手前に「たにし亭」なる小料理屋があった。日本的な美人(誰もが母をイメージ)の女性が一人で切り盛りしており、手の足りない時は塾生がアルバイトで手伝いをしていた。和敬塾は、朝、夕の二食だが、所定時間が過ぎると食べることが出来ない。

夜は、腹を空かした何人かの塾生がいつもたむろしており、美味しい手料理をいただいた。
特に、焼酎の「お茶割り」が評判で安くてうまい。誰もが必ずと云っていいほど飲んだ。

和敬塾は数年前、設立60周年を迎え、現在、寮は建て直された西寮、北寮、当時のままの南寮に加え、新しく東寮、大学院生や留学生のための巽寮、アジア系留学生が多い乾寮と6つの建物がある。

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最大のイベント「ホームカミング大会」(塾友向け新聞「コリー」より)

毎年10月、OB塾友が集まる最大のイベント「ホームカミング大会」が和敬塾で開催される。300名近い塾友が全国から集まる(全国の高校約500校出身者の実績)。

昨年(2017)10月、第28回を迎えた。

開催当日の朝、顔を合わせば「よう、よう、よー」と、握手、握手で学生時代に戻る。

卒業後、50年目は「招待者」で、すべて特別扱いだ。私も、2015年に迎えた。

ホームカミング大会は、講堂にて黙祷に始まり、塾歌斉唱、塾友会長、前川正雄理事長および前川昭一塾長の挨拶、和敬塾OBや各界の著名人、芸能人を迎え講演会、演芸会など開催。

いつも塾友会長の冒頭の挨拶は「お帰りなさーい」だ。

終了後、本館裏の中庭で和気あいあいの懇親会が開かれる(雨天の場合は食堂にて開催)。
飲料類などはOBの会社、OBの故郷などから多く提供され飲みきれないほどだ。

お亡くなりになったが、以前「たにし亭」女将の顔を見ると多くの者が駆け寄ったものだ。
旧交を暖めあい、2次会へ繰り出す。地方からの出席者も多いので3,4次会も‥‥。

最近、我々世代に近い連中の出席率がだんだん悪くなってきていることが気にかかる。

昨年、残念な情報に接した。ここ数年、新入塾生が激減しているとのことだ。

多くの大学が、自前で近代的な装備を具備した「マンション寮」を建設し、和敬塾より寮費は高いが、そちらへ新入学生が入寮とのこと。

立地抜群で素晴らしい環境の中、同じ大学でなく他大学生とも交流し、充実した大学生活を過ごすことが出来るのは間違いないが、時代の変化だろうか ??

大学入学される学生さんがおられましたら、入塾をご検討ください。案内します。

私の人生で多くの友人を得て、多く影響を受けた和敬塾・大学生活は、ブラボー !!

寮で過ごした青春の、学生時代の、思い出は尽きない。エンドマーク

のむら としひこ  ディレクトフォース会員(376)
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