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一般社団法人 ディレクトフォース

DFの研鑽支援活動

2020年2月26日

見出し定期例会(総会・講演・交流会)

 

見出し DF勉強会(2020年)

2020年2月26日 更新

目 次

開催日 タイトル 講師
2020年
2月12日(水)
シリーズ「イエスとは誰か」
第5回「イエスの神宣言――父と私は一つ」
秋山 哲 氏
2020年
1月20日(月)
シリーズ「イエスとは誰か」
第4回「イエスは預言されたメシアか」
秋山 哲 氏
2019年
12月17日(火)
シリーズ「イエスとは誰か」
第3回「近代思想の先覚者――価値観を転換したイエス」
秋山 哲 氏
2019年
11月25日(月)
シリーズ「イエスとは誰か」
第2回「宣教したのは最大3年――その地上生涯」
秋山 哲 氏
2019年
10月11日(金)
シリーズ「イエスとは誰か」
第1回 「イエスは実在したのか ーー 魔術使いか」
秋山 哲 氏

2020年2月27日 (掲載)

シリーズ「イエスとは誰か」

第5回「イエスの神宣言――父と私は一つ」

10月から始まった勉強会「イエスとは誰か」の第5回が開催されました。その概要は以下の通りでした。

  • 開催日時:2月12日(水)15:00から17:00まで
  • 開催場所:651会議室
  • 講 師:秋山哲氏(元毎日新聞常務、元日本イスラエル親善協会会長、DF会員)
  • 参加者:19人

◇ ◇ ◇

前回話したように、イエスは「父と私は一つ」と宣言しています。神と一体、神自身であるという立場はユダヤ教の歴史の中でどの預言者も取らなかった立場です。しかし、イエスはユダヤ教を無視して別の神を名乗ったのではありません。アブラハム以来のユダヤ教徒が信仰してきた神、つまり、ユダヤ民族と契約を結んだ神自身である、というのがイエスの立場です。彼の行動、言動は「聖なる四文字」であらわされる神の行動、言動ということになります。イエスも「父が私の内におり、その業を行っている」(ヨハネ福音書14:10)と明言しています。その立場に立つイエスがどのような宗教メッセージを発したのか。

一つの観点としてユダヤ教の改革ということがあります。すでに話しているように、イエスは、安息日のようなユダヤ教の戒律を必ずしも守らなかった。規定されているいけにえをイエスが神殿に奉納したという記録は新約聖書に出てきません。戒律にこだわる当時のユダヤ教指導層を手厳しく批判もしました。教条的に、表面的に戒律を守るのではなく、戒律の本来の意味を貫徹する、ということを要求しました。そのため、従来以上に戒律を拡大解釈する厳しい態度もとりました。

また、神のイメージを転換したことも重要です。ユダヤ教の神は「罪を罰せずにおくことは決してない」(出エジプト記34:7)と自己規定しているので、ユダヤでは「厳父」と認識されてきました。しかし、神は同時に「憐れみ深く慈しみに満ちた神」(出エジプト記34:6)とも宣言しています。イエスはこの「罪を赦す慈父」イメージを前面に押し出します。イエスは弟子たちへの告別説教で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)と説きます。これがイエスの十字架刑の意味内容であり、愛の宗教と言われるキリスト教の基本となります。

しかし、イエスはユダヤ教の改革者では終わりませんでした。旧約聖書が予告している「新しい契約」をユダヤ教に持ち込みます。

彼が持ち込んだ主テーマは、「神の国」です。旧約聖書にその言葉がない「神の国」の到来を、宣教開始から一貫してイエスは語り続けます。「神の国」という「新しいぶどう酒」を入れる「新しい革袋」としてキリスト教が生まれることになるのです。イエスのいう「福音」とは「神の国」を伝えることです。

しかし、「神の国」の具体的な内容は必ずしも明らかになっていません。イエスは常にたとえ話を用いて「神の国」を論じたからです。それが現世に出現するのか、霊的世界か、いくつかの受け止め方があります。イエスが、ピラト総督に尋問されたときに、「私の国はこの世のものではない」(ヨハネ福音書18:36)と明言しているので、私は霊的世界の話だと考えています。

では、「神の国」はどのようにして到来するのか。イエスの説いたところによると、「神の国」の到来は、世界の終末・審判とイエスの再臨と同時に起こることになります。

「神の国」とともに、イエスの宣教のポイントは「永遠の命」です。これも旧約聖書では使われない言葉です。イエスは自らの十字架刑を予告する場面で「それは信じる者が皆、人の子(イエスのこと)によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14)といったように、信じる者に「永遠の命」を与えることが最終目的なのです。

「神の国」に入り、「永遠の命」を得る条件は何か。社会的地位や富裕であることとは関係がない。また、口先で「信じる」というようなことではなく、すべてを投げだしてイエスに従うことが必要だとイエスは述べています。

また、「霊的に生まれ変わる」ことが重要だとイエスは強調しました。それは聖霊のそそぎを意味します。聖霊については次回にお話します。

以上(秋山哲)

(編集註:本稿は秋山講師ご自身が記述されました)

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2020年1月28日 (掲載)

シリーズ「イエスとは誰か」

第4回「イエスは預言されたメシアか」

10月から始まった勉強会「イエスとは誰か」の第4回が開催されました。その概要は以下の通りでした。

  • 開催日時:1月20日(火)15:00から17:00まで
  • 開催場所:651会議室
  • 講師:秋山哲氏(元毎日新聞社常務、元日本イスラエル親善協会会長、DF会員)
  • 参加者:21人

◇ ◇ ◇

講師これまでの3回はイエスを人として見る人性の面から説明してきましたが、これからは神としてのイエス、神性の観点から観察していきます。

イエスは誰かを考えるとき、「聖書は私について証しをするものだ」(ヨハネ福音書)というイエスの発言が重要です。旧約聖書は自分について前もって預言している、とイエスは言うのです。旧約聖書にはメシアについての預言がたくさんあります。これら預言を読んでみると、たしかに、イエスの生涯を前もって述べている、と考えることができます。

例えば、イエスの在世からみて何百年も前に編纂された「 箴言しんげん」には、神が天地創造よりも前に、「知恵」を造り、その「知恵」を見いだす人は命を得る、神からの喜びにあずかる、という預言があります。

これは、イエスの弟子ヨハネが哲学的に描いたヨハネ福音書のイエスと極めて似ています。ヨハネは「はじめに ことば があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書くのですが、「知恵」と箴言がいうものとヨハネが書く「言」は同じであって、イエスのことであると考えることができます。

また、旧約の詩編には「メシア詩編」と言われるものが9つあって、来たるべきメシアの姿が歌われていますが、イエスの地上生涯を、見てきたかのように表現しています。

イエスより7百年も前の預言者、イザヤが書いたイザヤ書には「しもべの歌」といわれるものが4つあります。これらの中には、メシアが苦難を受け、「刺し貫かれる」と、イエスの十字架刑を想定することが書いてあります。

さらに、旧約のエレミヤ書などには、「新しい契約」という言葉が打ち出されています。神がモーセを通して人間と結んだ十戎を中心とする契約、つまり「旧約」を破棄して、神は人間との間で「新しい契約」を結ぶ、という意味です。これはイエスが宣べ伝えた「新約」を指し示しています。神が大きな政策転換をする、ということが予告されているのです。

常に敵対する周辺民族と争ってきたユダヤ民族はそのような苦難から逃れたいと願ってメシアによる統治と平和な世界を夢見ており、それがこれらのメシア預言に反映していると考えることができます。同時に、メシアの出現がいつになるのか、という期待感、焦燥感が強くなっていきます。詩編やイザヤ書などには、神に対して「いつまでですか」と問いかける言葉がたくさん出てきます。いつまで苦しまなければならいのか、という思いです。

そこにイエスが登場したのです。先に話しているイエスとサマリアの女との対話の中で、女が「メシアが来られることは知っています」と言ったのに対してイエスが「あなたと話している私が、それである」と答えます。明快にイエスは自分がメシアだと宣言するのです。

「私がそれである」という表現は、旧約でも神の名乗りとして使われています。イエスはこの表現の延長線上で「私は道であり、真理であり、命である」「私が復活であり、命である」「私が命のパンである」「私は世の光である」といった言い方をします。神としての自己の本質をこういう形で表現するのです。これらは旧約で神が「私が全能の神である」と名乗ったのと同じ言い方です。

イエスが神と自分が一体であると語った場面は新約にはいくつも見られます。イエスは神を父と表現するのですが、その父と自分の関係をこのように言います。「私を見た者は父を見たのだ」「私が父の内におり、父が私の内におられる」「私と父とは一つである」。

そこで分かるのは、旧約の預言しているメシアとイエスの姿に違いがあることです。旧約のメシアは、現世的メシアです。メシアによる統治によって平安な世界が生まれる、という考えです。また、旧約のメシアは、神から派遣される救世主です。

それに対して、イエスが主張するのは、神と一体、神と一つになったメシアです。しかも、このところは次回に詳しく話す予定ですが、現世的な平和社会を実現するとは言っていません。霊的世界をイエスは考えているのです。

イエスを一時は歓声を上げて迎えたユダヤ人たちが、イエスを十字架刑に処するのは、このようなボタンの掛け違えがあったからです。

少し別な観点を含んでイエスを説明している新約の「ヘブライ人への手紙」に触れておきます。この手紙は名前のとおり、ユダヤ人に対してイエスを説明しようとするもので、旧約と新約を一体として解釈するのが特色です。この書物の著者は分からないのですが、著者が言っていることは、旧約には実体がない、あるのは実体の影であって、新約に実体はある、ということです。その観点から、旧約の預言者たちが神からの言葉を伝達したのに対して、イエスは神の言葉そのものを語ったのだとします。

また旧約の大祭司が捧げるいけにえは、イエスが十字架によって自らをいけにえとして捧げ、人類の罪を贖ったことの影でしかない、とします。したがって、イエスはただ一回のいけにえであるのに対して大祭司のいけにえは毎年捧げる必要があった、というように書いています。ユダヤ教の考えるメシアとイエスの姿の違い、違いの意味を説明しているのです。

以上(秋山哲)

(編集註:本稿は秋山講師ご自身が記述されました)

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2019年12月24日 (掲載)

シリーズ「イエスとは誰か」

第3回「近代思想の先覚者 ―― 価値観を転換したイエス」

10月から始まった勉強会「イエスとは誰か」の第3回が開催されました。その概要は以下の通りでした。

  • 開催日時:Ⅰ2月17日(火)15:00から17:00まで
  • 開催場所:760会議室
  • 講師:秋山哲氏(元毎日新聞社常務、元日本イスラエル親善協会会長、DF会員)
  • 参加者:15人

◇ ◇ ◇

講師今回の講義は、前回の第2回(イエスの地上生活)で積み残しになった「イエスの復活」から始まりました。復活は、イエスの地上生活と言えないかもしれないが、宗教の創始者が死んで復活する、というケースは他になく、キリスト教独特であり、これがなければキリスト教は存在しないとも言えます。復活したイエスは、弟子たちに「すべての民を弟子にし、洗礼を授けるように」と指示をします。

4つの福音書をもとにした前回レクチャーの補充の後、今回のテーマである「人としてのイエスの思想」へと進みました。イエスの言説は現在の人間にとって当たり前のことを言っていると受け止められる部分が多いのですが、これらの言説を2000年前に語り、行っていたという先進性は重要です。当時の価値観を転換させる思想をイエスが提示していたからこそ、キリスト教が世界の思想史、宗教世界に大きな影響を与えることになったのです。これがなければ、当時のユダヤで支配者ローマ帝国に抵抗して騒動を起こし、死刑になった何人もの巡回説教家の一人として、忘れられてしまったことでしょう。

価値転換として分かりやすいのは、イエスが男女平等を実行したことです。当時、どの世界でも女性の地位は男性と比べて極めて低いものでした。無視されていたと言ってよい。ユダヤ教の戒律でも、ほとんど男性の思うままに離婚することができました。しかし、イエスは、結婚や離婚について完全な男女同権を教えています。性的マイノリティの受容もはっきりと述べているのは驚くべきことです。

イエスに付き従っていた集団には多くの女性がいて、それら女性の名が聖書にはたくさん記されています。十字架刑を見守るのも、イエスの復活を最初に知るのも女性たちです。福音書が記すイエスの活動の中では女性が重要な役割を果たしています。

女性差別だけではなく、様々な差別を無視してイエスは行動しました。ローマに奉仕する罪人と考えられていた徴税人の家に泊まるとか、一緒に食事をするとか、当時の社会では考えられなかった行動を取っています。戒律によって忌避することが厳しく規定されていたハンセン病患者に手を置いて癒し、共に食事したこともいくつも記録されています。現代の日本においてですらこのように行動する人が多いとはいえません。

歴史的経緯からユダヤ人が差別し、付き合うことも話をすることもなかったサマリア人の地方をイエスは旅行し、そこでサマリアの女性と1対1で対話を行います。ユダヤ教と異邦人の宗教が一つになる、という宗教上極めて重要な考えをイエスはこの異邦人の女性に伝えるのです。これは、女性差別と民族差別をともに完全否定する、無視する行動です。

よきサマリア人」というよく知られた説話では、あえてユダヤ教の祭司とサマリア人を例示して、サマリア人の方が、隣人を愛する行動をとったと称賛しています。

ローマ軍の隊長の娘を癒し、この隊長の信仰心を高く評価する話も、選民ユダヤと異邦人という区別、差別を乗り越えています。隣国フェニキアで異邦人の女性の子を癒したことも聖書は伝えています。

このように差別を排除する考えかたは、個の確立、自由意思の確認へと進みます。「放蕩息子の譬え」としてよく知られている説話がそうです。父親の生前に財産の分け前を要求して受け取り、その金を乱費して使い果たし、苦境に陥った男が父の所へ帰る。父は大歓迎して宴会を催す。父に従い続けている兄が怒るのを「失われた者が帰ってきたら歓迎するのが当たり前」と父はたしなめる。このストーリーを神の愛を示すたとえ話と受け取ることはもちろんよいのですが、放蕩息子の自由意思、自己決定を肯定する話と理解することができます。神を捨て、また神に帰る自由を人が持つ、という理解をするなら、信教の自由さえも表しているといえるでしょう。

イエスは宗教学者などが権威を振り回すのを嫌悪しました。ユダヤ教の重要な戒律となっている安息日をイエスは必ずしも守らず、安息日にも癒しの行為を実施しました。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」というイエスの言説は、宗教的権威を否定し、戒律をも自由に解釈することを許しています。

個人よりも集団を優先する古代社会にあって、イエスが目標としたのは、権威主義や、不平等、あるいは差別のない公正な社会でした。金持ちが地獄で苦しみにあい、貧乏だった人が天国に行く、といった話をしていることは、人としてのイエスが社会改革を見据えていたことを示していると思います。

以上(秋山哲)

(編集註:本稿は秋山講師ご自身が記述されました)

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2019年12月1日 (掲載)

シリーズ「イエスとは誰か」

第2回 「宣教したのは最大3年 ―― その地上生涯」

10月11日に始まった一神教シリーズの「イエスとは誰か」の第2回が開催されました。その内容を報告します。

  • 開催日時:11月25日(月)15:00から17:00まで
  • 開催場所:760会議室
  • 講師:秋山哲氏(元毎日新聞社常務、元日本イスラエル親善協会会長、DF会員)
  • 参加者:20人

◇ ◇ ◇

講師10月の第1回は、「イエスは実在したのか」をテーマにし、古代史に現れるイエスや、当時の社会情勢を説明、イエスの宣教開始当時の様子を述べた。

今回は、イエスの宣教開始から十字架上での死にいたる地上でのイエスの活動、つまり「公生涯」を概観した。

共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカによる福音書でみると、イエスの活動はイスラエルの北部、ガリラヤ周辺で宣教し、最後にエルサレムにいって十字架にかかる、ということになり、公生涯は1年ほど、ということになる。

一方、ヨハネの福音書では、イエスはガリラヤとエルサレムを行き来し、エルサレムへは4回訪れている。この記述に従うと、イエスの公生涯は3年あまりということになる。

いずれにしても、イエスが地上で宗教的な活動を行ったのは極めて短期間である。ユダヤ教のモーセ、イスラムのムハンマド、あるいは釈迦、孔子などと比べて比較にならないほどの短い期間である。その間に、後刻説明するような宗教的に、社会的に、世界を転換させるまでの大きな影響を与え、いまにいたる世界最大級の宗教を築いたことを考えると、人間としてのイエスは並外れた人物である。

人間としてのイエスの性格をみると、一つは「愛の人」ということになる。しかし、ここで言う「愛」は、新約聖書を記述しているギリシャ語では「アガペー」であって、「無私の愛」「神的愛」「友のために命を捨てる愛」を意味する。日本語で愛、英語でLoveと訳されているものとは違っていることが重要である。

イエスと、第一の弟子であるペトロの問答が聖書にあるが、二人の話は「愛」を巡ってすれ違う。イエスは「アガペー」で質問し、ペトロは、友人愛を意味するギリシャ語「フィリア」で答えるためにすれ違うのだが、日本語聖書は、二人の発言をいずれも「愛」と訳しているため、すれ違いの意味が分からない。英語でもLove一言で記述しているから意味不明の問答になっている。

またイエスは、謙遜であって高ぶらない「謙卑」の人といわれる。最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、しもべ(僕)のように仕えることを教えた。

平和主義でもある。しかし、気性の激しいところもあった。エルサレムの神殿境内で、「ここは祈りの家である、商売の場ではない」といって、商売している人たちの店をひっくり返すという乱暴なこともしている。さらに、当時、宗教的に指導的立場にあった人たちを口を極めて非難することを繰り返している。

もう一つ注目するべきことは、イエスの聖書的学識の深さ、堂々たる説話と内容の面白さである。イエスの周辺に集まった群衆といわれるほどの人々は、前回話したたくさんの奇蹟に驚くだけではなしに、イエスの説法に引き込まれたのである。

イエスは最終的に、エルサレムに入り、弟子たちとともに最後の晩餐を行ったあと、捕らえられ、大祭司によって「神を冒涜した」という宗教上の罪を宣告される。しかし、「政治的反乱を企てた」という別の理由を付けて、死刑宣告の権限を持つローマ総督のもとに送り込まれる。

十字架刑によってイエスは死を迎えるが、十字架上で彼が「成し遂げられた」という最後の言葉を残したというヨハネ福音書の記述は、彼が、神の計画に従って行動し、神の計画通りに、人類救済のために死を迎えたということを意味している。


◇ ◇ ◇

次回予定
 ・開催日時:次回は12月17日(火)15:00から17:00まで
 ・場  所:760会議室

以上(秋山哲)

(編集註:本稿は秋山講師ご自身が記述されました)

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2019年11月1日 (掲載)

シリーズ「イエスとは誰か」

第1回 「イエスは実在したのか ーー 魔術使いか」

新しい勉強会「イエスとは誰か」が始まりました。

2016年秋から行われた「一神教のもつれた糸はほぐせるか」、また、それを受けて2017年秋にスタートした「神と人間はどのように関わってきたか」という一神教に関するレクチャーの第3回目シリーズです。その第1回の概要は以下の通りでした。

  • 開催日時:10月11日(金)15:00から17:00まで
  • 開催場所:760会議室
  • 講師:秋山哲氏(元毎日新聞常務、元日本イスラエル親善協会会長。DF会員)
  • 参加者:20人

◇ ◇ ◇

講師当日の内容(概要)は以下の通りです。

最初にこの講義のねらいを説明しました。

イエスはキリスト教の信仰対象であり、「完全な神性」と「完全な人性」を併せ持つ唯一神という他に例のない設定になっています。このレクチャーは、分かちがたいとされる神性と人性をあえて区分して、それぞれの側面からイエスを説明しようとするものです。私は単なるキリスト教徒で、公式の神学教育を受けた者ではありませんが、あえてこのテーマに取り組みます。レクチャーは7回を予定し、各回のテーマは以下のとおりです。

  1. イエスは実在したのか ーー 魔術使いか
  2. 宣教したのは最大3年 ーー その地上生活
  3. 近代思想の先駆者 ーー 価値観を転換したイエス
  4. イエスは預言されていたメシアか
  5. イエスの神宣言 ーー 父と私は一つ
  6. ペトロやパウロはイエスをどう理解したか
  7. 激突する教父たち ーー 難産だった三位一体論

第1回は、イエスが実在したかどうか、から話に入りました。キリスト教の経典である新約聖書にはイエスの伝記、言行録といえる4つの福音書があり、それ以外のパウロ書簡などにもイエスに関する情報がたくさん掲載されているが、新約聖書を除くとイエスに関する記録は極めて少ない。

ローマの歴史家タキトウスが書いたローマ帝国の歴史書『年代記』には、ネロ皇帝によるローマの大火に関連して「キリスト信者」が大量に殺害されたことが書かれている。またヨセフスの『ユダヤ戦記』には、イエスという賢人が奇蹟を行い、十字架刑に処せられたことが記載されている。ユダヤ教の口伝戒律をまとめたタルムードには「イェシュという人物が魔術を行い、民衆を錯乱させ、十字架にかけられた」という記事がある。

イエス実在の傍証はこのように多くはないが、イエスが実在しなかった、という仮説を立てると、新約聖書に記録されている高度な宗教思想、社会思想をだれが唱えたのか、なぜその人物が歴史の中に影を残していないのか、という面倒な疑問が生じる。

では、イエスが現れたころのユダヤ地方の状況はどうだったか。

アレクサンダーによる征服によってユダヤ地方にヘレニズム文化が持ち込まれ、その後を襲ったローマ帝国もユダヤ文化と相いれない偶像崇拝を持ち込んだ。この間、ユダヤ民族は圧迫されながら、神がいつの日か現れてユダヤを救われるに違いない、という強い希望を持つに至っていた。特に西暦紀元の少し前から、ローマに対するいくつもの反乱がおこり、この地方は騒乱状態といってもよい状況にあった。

そのタイミングでイエスが生まれる。イエスは西暦紀元の4年ほど前に生まれ、西暦20年代の後半に十字架刑にかけられたと考えられる。

イエスの誕生物語はよく知られているが、4つの福音書はそれらの物語を同じように書いているか、といえばそうではなくて、ばらばらである。また、イエスの幼年期の情報はほとんどない。ヨセフというナザレ(ガリラヤ湖の近く)の大工ヨセフがイエスの父という役割で、イエスは大工仕事を手伝って成人したと見られている。

イエスが宗教人として活動を開始するまえに、洗礼者ヨハネという人物によって、ヨルダン川で洗礼を授けられる。その後、イエスも従う人たちに洗礼を行うが、ユダヤ教には洗礼というものがない。ここからユダヤ教とキリスト教の分化が始まる。

イエスは弟子を集め始めるが、弟子になる者には、家族、肉親との関係を立ち、財産を捨て、無条件でイエスに従うことを求める。弟子になった者たちも、イエスの一言によって、すべてを投げうってイエスに従うようになる。

イエスは、病を癒し、身体障碍を取り去るという医療行為によって名声を博し、広い地域から大勢の信徒を獲得していく。イエスの行った奇跡は、死人をよみがえらせることをはじめ、新約聖書に満載である。水をぶどう酒に変える、わずかなパンで5千人もの群衆を満腹させる、水上歩行など、さまざまな奇蹟を行った。タルムードが「魔術」と書くのも無理がないほどである。これら奇蹟をどう考えるかは、イエスの神性について説明するところで話す予定である。次回は、イエスの地上生活の後半を話しする。

◇ ◇ ◇

次回予定
 ・開催日時:11月25日(月)15:00から17:00まで
 ・場  所:760会議室

以上(秋山哲)

(編集註:本稿は秋山講師ご自身が記述されました)

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